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2006年5月27日 (土)

湾岸危機2

1990年8月、イラク軍がクウェートに侵攻したことによって始まった湾岸危機。この時サダム・フセイン支持を本国政府が表明したために、働いていた国を追い出されたイエメン人やパレスチナ人の労働者は、アラビア半島全体で100万人以上いたそうです。大量の労働者が帰還したイエメンやヨルダンでは、首都の人口が一気に倍以上になり、失業率の急上昇や水・食料不足など深刻な影響を受けたと言います。さて、現地の大使館が「最初から言ってたけど全然危険じゃないから早く戻って来い」と督促してきたので、私たちはまたリヤドに戻ることになりました。9月下旬のことです。確かに、この間特にリヤドで何か騒ぎがあったわけではなく、相変わらずアラブ諸国は対策会議に追われているものの何も解決策を見出せず、ただアメリカを中心とした国際社会がイラクに対する経済制裁を発動するなど、その包囲網をジワジワと縮めている状況でした。そうして、ほどなく「1月15日」という期限が設けられたのです。この日までにイラク軍がクウェートから撤退しないと、多国籍軍がイラクに軍事攻撃をかけるというものでした。その日から新聞には「あと○日」という時計のマークがつくようになり、11月、12月と決定打のないまま、次第に緊迫感が高まっていきました。

12月の半ば、私達は大使館に集められ、現状では危険なことはないのだという話を聞かされました。私たちも国の仕事として来ている以上、率先して「帰りたい」と願っているわけではないし、私たちが出国することによって「サウジを紛争国と認定したらサウジ政府が不快感を持って、我が国の石油の安定供給に問題が生じる」という言い分もわからないでもありませんでした。ただ、このまま滞在するには「確かな情報」と「万が一の時の保証」が必要です。しかし多国籍軍、特に米軍がどの程度本気で「やる気」なのか、イラクのスカッドミサイルは本当にリヤドに照準を定めているのか、そういった軍事に関する情報は一切明かされませんでした。また、万が一有事の際には、大使館にかくまってくれると言われましたが、「大使館までは自分で来てください」と付け加えられました。まあ確かにそうなんでしょうけど・・・。来たときよりもどんよりした気持ちで大使館を後にした私たちでした。

12月も押しつまり、ますます戦争の機運が高まってきました。職場では防毒マスクの注文書が回り、そこにはマスタードガスの特徴、症状などが詳細に記されていました。もう戦争不可避のムードが圧倒的に支配している中、相変わらず大使館は「戦争は絶対ない」と言っています。しびれを切らしたヘッドオフィスはすでに飛行機の予約を行っていたようですが、1月7日以降は極めて予約が取りにくい状況でした。フライトの数がぐっと減り、チケット代もエコノミーでファーストクラスの値段になっていました。本当は飛行機代が安く確実に席が取れる1月早々にでも、家族くらいは出国させたかったようですが、年末年始で外務省も休みになり、その辺りの交渉ができなかったようです。結局、家族10数名分の席が1月9日出発でなんとか確保できました。しかし男性20名分は14日に予約は入れたものの、長い長いウエイティングリストです。家族をみんなで送り出した後、非常に重苦しい雰囲気に包まれました。
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