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2007年11月 2日 (金)

サウド王家 (2)

アラビア半島東部のオナイザ族の一員であったサウド家一族は、1700年頃までに、内陸部ナジュドのディルイーヤ(ディライヤ)に移住してきます。1725年にムハンマド・ビン・サウドが当主になると、近郊の村出身のイスラム法学者であるムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブの説く「本来のイスラムの姿に帰ろう」という原理主義宗教運動(ワッハーブ運動、ワッハーブ主義)に、全面的に協力することを約束しました。

彼らはアラビア半島の宗教的・政治的統一事業を進め、ナジュド全域、ナジュド北部のカスィーム、半島東部のハサー地方にまで勢力を伸ばしました。事業は息子たちに引き継がれ、当時オスマントルコの支配下にあった半島西部のヒジャーズ地方(マッカ、マディーナ含む)を奪回、次いでアスィール地方、オマーン、イエメン、そしてバグダッド近郊まで支配権をのばし、約80年をかけ、ついにアラビア半島統一の大事業を成し遂げました(第一次サウド候国)。

しかし1811年、オスマントルコの命を受けたエジプトのムハンマド・アリー軍がアラビア半島を猛襲。1814年にヒジャーズが奪還され、1818年には9ヶ月におよぶ激戦の末、ディルイーヤも壊滅しました。当時の首長アブドゥッラーをはじめ多くのサウド家一族が殺害されたことにより、ここに第一次サウド候国は消滅し、アラビア半島は再びオスマントルコの軍門に下りました。

この戦いを生き延びたトルキー・ビン・アブドゥッラーは、サウド家の再興に立ちあがり、ディルイーヤに代わるサウド家の新たな首都として、リヤドに攻め入りこれを占領しました(1824年)。一方、サウド家一族と同様、数多くの家族を殺されたムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブの一族も帰還して、ワッハーブ運動を再開しました。トルキーは失った領土を次々と回復し、ワッハーブ運動に依拠した治世を行い、アラビア半島を再びサウド家の名の下に統一しました(第二次サウド侯国)。

1865年にファイサル首長が死去すると、2人の息子による激しい権力闘争が始まりました。この争いは内戦にまで発展し、20年以上も続いたため、サウド家は次第に勢力を失っていきました。この間、リヤドの北部地方では、オスマントルコの援助を受けたラシード家が台頭し、本拠地ハーイルを中心として、その勢力をナジュドにまで徐々に拡張していました。1887年、サウード侯国攻略の機会を狙っていたラシード軍は、遂にリヤドに侵攻、同地を管理下に置きました。

サウド侯国の首長を継承していたアブドゥッラフマーンはリヤドに留まったものの、その支配権は名目上だけのものとなり、身分もラシード家に従属する立場に置かれていました。1891年、アブドゥッラフマーンはラシード家によるサウド家一族の抹殺を恐れて、家族とわずかな部下を伴ってリヤドを脱出しました。こうして、第二次サウド侯国は瓦解しました。息子のアブドゥルアズィーズ(後のサウジアラビア王国初代国王)はこの時、10歳の少年でした。

長い亡命生活を送る中で、アブドゥルアズィーズは着実に力をつけていきました。最初の2年間は、ルブアルハリ砂漠で略奪を常習とするムッラ族に身を寄せ、実戦を経験するとともに、砂漠で生き抜く方法を体得しました。クウェート滞在中は、ムバラク首長にその卓越した才能と優れた素質を見いだされ、様々な学問とともに国の政策や外交の駆け引きなどに関する英才教育を施されたと言います。こうして、1902年、アブドゥルアズィーズと40人の精鋭部隊は、リヤドのマスマク城を奇襲、リヤド奪還に成功しました。その後も幾多の難局を乗り越え、1932年、ついにサウジアラビア王国建国という悲願を達成しました。

「saudi_family_tree_1st_2nd.pdf」

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