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2008年2月16日 (土)

ボウリング・フォー・コロンバイン

またアメリカで、銃乱射という悲惨な事件が起きました。あらためて「ボウリング・フォー・コロンバイン」を観ましたが、いくつか感じたことを。

まず、これはドキュメンタリーではなく映画という作品であるということ。もし中立的な視点を持って記録されたドキュメンタリーフィルムであると捉えれば、事実のみを列挙して最終的な判断は視聴者に任せるというスタンスもあり得ますが (その場合2時間ではとても足りないでしょうが)、それにしては「ボウリング・フォー・コロンバイン」はあまりに感傷的です。マイケル・ムーア監督は一定のトーンを持って何かを語ろうとしており、その点においてこれは監督の思想心情が色濃く反映された表現手法としての映画そのものだと思いました。

ただし、社会的な問題を浮き彫りにしようとする攻撃的な使命感というよりも、むしろひとりのアメリカ人としてこの現実をとても悲しいものだと感じている、その内省的な感覚をよりどころにして撮られた映画なのではないでしょうか。そのため、撮り始めてはみたものの帰着点がなかなか見つからないという、良く言えば人それぞれに違った余韻が残る映画、悪く言えば論点がぼやけた映画になってしまったのかなと。アポなし突撃取材が多いので、やっていることはずうずうしくはた迷惑なことばかりなのですが、監督の愛嬌ある風貌と正義感ぶっていない穏やかな口調が、映画を一定の質に保っています。

映画の中ではいろいろな立場の人にインタビューを行ったり、アメリカの歴史と銃の関連性について考察したりしていますが、結局映画としては最後まであまりはっきりとした答を出してはいません。黒人による銃犯罪をヒステリックに報道し続け恐怖をあおる「メディア」と、銃による自己防衛を促す「業界」というアメリカ社会における「勝ち組」が悪いのではないかというのが、唯一主張らしい主張ですが、さすがにマイケル・ムーアも「すべて環境のせい」と断言するほど鈍感な人間ではないということでしょう。

映画の中で、ある大手スーパーマーケットの店頭から銃弾を撤去させたことはひとつの成果だったとは思いますが、もちろんこれは、スーパー側が「これは宣伝になる、銃弾の売り上げ減以上に儲かる」と判断した可能性の方が高いでしょう。それはさておき、確かに安易に銃 (銃弾) を買える環境というのはいかにもアメリカ的であり、日本の社会では想像もつきません。こういう環境が銃犯罪を助長していないと言い切ることは難しいでしょうが、犯罪そのものの動機として「銃ありき」で考えるのもまた無理があります。

しかしながら、この「環境が悪い」というひとつの主張は、おそらく自身も社会的弱者側の人間であるという感覚を持つであろうマイケル・ムーア監督の実感として、常に根底に流れているのではないでしょうか。人は本来的に弱い存在なので、安易に流れやすいのだと。しかしこの主張はややもすると、「麻薬を売る国があるからアメリカ人がむしばまれる」などという逆ギレ的な考え方にもつながるので、「環境を制するのはあくまで個人」という理性も当然持ち合わせていなくては、いっぱしの知識人あるいは映画人としては通用しないでしょう。

この映画を観たアメリカ人の反応は、「今更何を言っているんだ」だったのではないでしょうか。みんなこの現実は認識しているし、ここまで銃が氾濫している社会に対して不安と疑問を持っていることは間違いないのだろうけど、「わかっちゃいるけど止められない」というのが本音ではないかと思います。そう言った意味では、「ボウリング・フォー・コロンバイン」はアメリカ人の意識変革を狙ったというよりは、超大国アメリカの悲惨な現実を暴露して外国人受けを狙った商業主義的な映画なのだともとれますね。この見方はちょっと意地悪すぎるかな。

いずれにしろ、アメリカ人というのは根本的に臆病なのかなと。そして孤独。自由の国ではあるけれど、それ故きちんと自己を管理できないと、たちまち底辺に落ちてしまうという。競争は社会の発展に必要だけれど、一握りの勝者の影には無数の敗者がいるのもまた現実。それでも途上国の人間がアメリカを目指すのは一体何故?

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