« お宝カメラ | トップページ | 突然ダンナが外国人に »

2008年5月17日 (土)

エチオピア小史

■起源
紀元前1000年頃、セム系の人々が南アラビアのサバ王国 (シバ王国) から紅海をわたり、沿岸のハム系諸族を征服したのがエチオピア帝国の始まりです。伝説によれば、シバの女王とソロモン大王の間に生まれたメネリク1世が初代皇帝につきました。2世紀にはソロモン王朝がアクスム王国をきずき、4世紀には王朝最盛期のエザナ王がユダヤ教からキリスト教に改宗しました。

7世紀の初めにソロモン王朝は衰退し、10世紀初頭、中央高地の支配一族であるザグウェ王朝によってたおされました。12世紀にザクウェ王朝のラリベラ大王は、ラリベラの岩窟教会群を建設しますが、これはイスラムとの戦いに備えてきずかれた信仰の産物とされます。

1260年以降、ソロモン王朝が盛りかえしてきましたが、沿岸地域と南東部はイスラム教徒が支配しました。ザラ・ヤクブの統治の間 (1434~1468年) に芽生えた政治組織は、土地授与の見返りに軍事力の奉仕を要求する絶対王政の性格をもち、20世紀中ごろまで存続しました。

■近代国家への歩み
1632年にファシラダスが皇帝となり、1637年に息子であるヨハネス1世が皇位を引きつぎました。17世紀、エチオピア文化は西ヨーロッパとイスラム世界の表現様式に影響をうけ、芸術的ルネサンスを経験しました。これはヨハネスの息子で、「偉大なるイヤサス」とよばれたイヤサス1世の治世 (1682~1706年) に顕著でした。彼は芸術の愛好者であると同時に、近代化の推進者、すぐれた軍事戦略家でもありました。1706年にイヤサスが死んだのち、エチオピアはふたたび長期にわたる王朝の混乱と衰退の時代に入り、国家は分裂しました。

1855年、北西部出身のラス・カッサがエチオピア正教会の支持により、テオドロス2世として皇帝に即位、全国を統一しました。これが近代エチオピア国家の始まりとされます。テオドロス2世はイギリス人の役人を陰謀の罪で投獄し、これをきっかけにはじまったイギリスとの戦いで、1868年、自殺においこまれました。それから4年間、王位をめぐる争いが続き、ティグレ地方の支配者デジャズ・カッサイ (ヨハネス4世) がイギリスの後押しをうけ、王位を継承することで決着しました。ヨハネス4世は、エジプトの侵入を食いとめることはできましたが、1887年、スーダンとの戦いで殺害され、メネリク2世がその後をつぎました。メネリク2世は新しい首都をアジスアベバにさだめ、ティグレ、アムハラ地方を統一しました。

■イタリアとの戦争
1869年のスエズ運河の開通により、紅海沿岸はヨーロッパ列強にとって魅力的な地域になりました。イタリアは、1872年にアッサブを、1885年にマッサワを占領しました。1889年にメネリク2世とイタリアはウッチャリ協定を締結しましたが、この内容がアムハラ語の協定とイタリア語の協定とで異なり、イタリア語の協定ではエチオピア全土がイタリアの保護領になっていました。それが原因で1895年にイタリア・エチオピア戦争が起こり、翌年イタリア軍はアドワで敗北しました。

イタリアは、エチオピアの独立と当時の国境を認めざるを得なくなりました。メネリク2世の後継者リジ・イヤス、次にその叔母のザウディトゥが帝位につき、1930年、タファリ・マコンネンがハイレ・セラシエ1世として即位しました。ハイレ・セラシエは1931年、エチオピアに初の憲法制定をもたらしました。

1935年10月、ムッソリーニの台頭にともない、イタリアはふたたびエチオピアに侵入しました。アジスアベバは陥落し、ハイレ・セラシエはイギリスに亡命しましたが、1941年、イギリスとエチオピアの連合軍による解放後、ふたたび王位に復位しました。

■ハイレ・セラシエ治世
1947年に調印されたイタリアとの同盟平和条約によると、エリトリア、イタリア領ソマリランド、リビアの譲渡について、1年以内に同意することになっていました。しかし、その同意が得られないまま、決定は国際連合にゆだねられました。国連総会はエリトリアとエチオピアとの連邦に賛成の決議をし、1952年9月に連邦が結ばれました。

1960年代、ハイレ・セラシエは外交問題に没頭し、1963年にはアフリカ統一機構の結成に指導的な役割をはたしました。翌年、長年つづいていたエチオピアと当時のソマリア共和国との間の国境紛争のために戦争が勃発しました。3月に合意された休戦協定で、国境沿いに非武装地帯が設けられましたが、交戦は散発的にくり返されました。1965年にはスーダンとの紛争も起きました。1970年12月、エチオピア政府は、エリトリア地方の戒厳令と非常事態を布告しましたが、ゲリラ戦を終結させることはできませんでした。

1970年代初頭、ハイレ・セラシエは引きつづき国際舞台で中心的な役割を果たしていましたが、国内の体制改革は遅れ、国民の間に不満がつのっていきました。1974年2月にはじまった学生、労働者、兵士による一連のストライキとデモは、9月12日にハイレ・セラシエを廃位に追い込みました。臨時軍事行政評議会は1974年後半に、国家統制による社会主義経済の確立をめざす計画を発表しました。1975年初頭にすべての農地は国有化され、その大半が個人に分配されました。同年3月、君主制が廃止され、共和制に移行しました。

■メンギストゥ政権
1976年から、陸軍中佐メンギストゥ・ハイレ・マリアムが台頭してきました。メンギストゥは反対勢力に対し厳しい弾圧を行い政権を掌握しましたが、学生や政治的グループによる反政府運動、オガデン地方とエリトリアの2つの分離独立運動などに直面します。オガデン地方の紛争は1977年中ごろに拡大し、ソマリアから援助をうけた分離独立主義者はオガデンのほとんどの支配を勝ちとりました。エチオピア政府は、その後ソ連やキューバなどから大規模な武器援助をうけ、反乱軍に対して有利な立場に立ちましたが、抵抗は続きました。一方、国内では政府の貧困撲滅と経済成長促進の計画が、くり返しおこった干ばつと飢饉によってゆきづまっていました。

1984年9月、エチオピアは共産主義国家となり、メンギストゥは新たに設立された勤労人民党の書記長に就任しました。1987年、文民政府の設立をうたった新憲法のもとで国名がエチオピア人民民主共和国に変わり、立法府は大統領にメンギストゥを選びました。長びく内戦と政府の西側諸国に対する不信から、エチオピアは困窮していながら80年代を通じて世界中からの食糧や医薬品の援助を受けようとはしませんでした。

1990年代に入り、ソ連からの援助が削減されてメンギストゥ政府は弱体化しました。ティグレに本拠地をおくエチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF) と分離主義を標榜するエリトリア人民解放戦線 (EPLF) が同盟して、1990年に北部地方を支配下に治めました。1991年5月、メンギストゥはジンバブエに逃亡し、メレス・ゼナウィ率いる EPRDF はエチオピアの暫定政府を樹立しました。

一方、EPLF はエリトリアの首都アスマラを占領し、臨時政府を設立しました。1993年4月、住民投票により独立が承認され、エリトリアは独立を宣言し、エチオピアはこの新政府を承認しました。

■メレス政権
1994年6月、初の複数政党制による選挙で新憲法作成のための憲法制定議会の代表が選出されました。エチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF) が547議席中484議席を獲得し、12月、さまざまな民族に特別な権利を認める憲法が制定されました。

1995年5~6月の総選挙後、国名をエチオピア連邦民主共和国に変えました。連邦民主共和国初の政権として発足したメレス・ゼナウィ政権は政権の基盤確立を図るとともに、前メンギストゥ政権期の圧政に対する裁判を1996年4月に再開しました。

一方、1995年にはスーダン、1997年にはソマリアとの関係が緊張します。1998年5月にはエチオピアのティグレ州イイグラ地帯の領有権をめぐり、エリトリアとの間で軍事衝突が発生し、エリトリア軍がエチオピア北西部を占領しました。1999年2月には大規模戦闘に発展したため、国連安全保障理事会が即時停戦勧告決議を採択しました。エリトリアはアフリカ統一機構 (OAU) の和平案を受け入れましたが、占領地域から撤退せず、戦闘は継続されました。エリトリア軍との戦闘は国家財政を悪化させました。同年9月、世界銀行は停戦が実現するまで新たな融資を停止することを決定しました。

1990年代末からつづいている日照りのため、南東部を中心に干ばつが広がり、食糧危機が進行しました。エリトリアとの戦闘と内戦によって運輸網が切断されたため食糧配給がとどこおり、2000年には危機的状況におちいりました。4月、世界食糧計画 (WFP) は国際的な支援を要請しました。

2000年6月、アフリカ統一機構の和平調停案を双方がうけいれ、エチオピアとエリトリアの領土紛争は2年ぶりに停戦にこぎつけました。国境線の画定は後のこととされ、同年9月、国連エチオピア・エリトリア派遣団 (UNMEE) の第一陣が展開、12月に両国はアルジェで平和条約に調印しました。2001年2月、エチオピアとエリトリアは緩衝地帯「臨時安全地帯」の設置で合意し、エチオピアは2月26日、エリトリアは4月17日に全軍撤退し、国連の確認の下で緩衝地帯が設置されています。

2000年5月の人民代表議会 (下院) の総選挙は、前回の選挙をボイコットしたオロモ解放戦線 (OLF) なども参加して行われましたが、与党の EPRDF が圧勝、10月には下院でメレス首相が再選され、同月に OLF などオロモ人グループ4派は統一オロモ解放戦線 (UOLF) を結成しました。また、新憲法のもとでの初代大統領ネガソ・ギダダの任期が満了し、2001年10月、上下院は満場一致でギルマ・ウォルドギオルギス下院議員を新大統領に選出しました。

2005年5月、5年ごとの人民代表議会の総選挙が行われましたが、与党 EPRDF による不正選挙だと抗議する学生や野党支持者がアジスアベバその他の都市でデモを行い、治安部隊の発砲によって数十人が死亡しました。この混乱によって選挙結果の発表が大幅に遅れ、8月9日に発表された最終結果では EPRDF が全547議席のうちの296議席を獲得し、メレスがひき続き政権を担うことになりました。

【蛇足】
2005年はエチオピアにいました。5月から11月にかけて、頻繁に民衆と治安部隊の衝突がありました。自宅にいても近所からタタタタターンと機関銃の音が聞こえてきました。また、野党がゼネストを訴えることも多く、「今日は午後3時以降に道を走っているタクシー、バス、あらゆる車に対して投石しろ」という呼びかけがあったりして、そんな時は2時くらいにさっさと帰宅して、家にこもっていました。まぁ、言うほど緊迫した感じではありませんでしたが。

377et_map

|

« お宝カメラ | トップページ | 突然ダンナが外国人に »

旅行・地域 エチオピア」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« お宝カメラ | トップページ | 突然ダンナが外国人に »