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2008年11月10日 (月)

宗教の功罪

1984年から85年にかけてエチオピアを襲った大飢饉は、100万人の餓死者を出したと言われています。この未曾有宇の大災害に、もちろん世界はだまっていませんでした。当時は東西冷戦の時代であり、旧ソ連の庇護下にあったエチオピアでしたが、西側諸国も人道的見地に立って、積極的に食料援助を行いました。

世界中から届けられる援助物資。しかしこれらはうまく分配されませんでした。あるところには食料が山積みになっているのに、相変わらず餓死者がいなくなることはありませんでした。多民族国家のエチオピアですから、何らかの政治的判断があったのかもしれませんが、やはり輸送の問題も大きかったと思います。

当時、エチオピア北部の町でボランティア活動をしていた方から聞いた話です。その町は州都で人口規模も大きく、外国からの援助物資がたくさん運ばれていました。町の倉庫に食料が山と積まれている中で、次々と住民が餓死していきました。日々運ばれる遺体によって、共同墓地はあっという間にいっぱいになりました。

町の倉庫に食料があることはみんな知っているのに、暴動を起こすでもなく、ただ静かに命の灯が消えるのを待っている姿を見て、その方も本当にいたたまれなかったそうです。なぜエチオピア人があんなに静かに死んでいったのか、未だに答は出ないと言っていました。

これこそが宗教のなせる業なのかもしれません。もがきあがいて他人を呪い、親兄弟を捨ててまで自らが生き残ることに、いったいどれほどの意味があるのでしょう。それならいっそ潔く、きれいな心のままに死んでいくことも選択肢としてあり得ると思います。そうすることによって、天国での平安が約束されるのであればなおさらです。そしてそれは、信仰という一念によってのみ成就するわけです。

死を身近に感じ、どんなタイミングであっても甘んじて受け入れるエチオピア人。端から見ていて、もっと死に抗ってほしい、生にどん欲であってほしいといつも思っていました。死の恐怖すら超越しているのだとしたら、もうご飯を食べる必要も病気を治す必要もありません。いくら外国人が援助を進めても、開発の理由そのものがなくなってしまいます。

おいしいものをお腹いっぱい食べたいという欲求は、それほど罰当たりなことではないと思うのですが…。

ここであらためて昨日の記事から言葉を抜粋。

「人に魚を一匹与えれば一日の食事になるだろう。人に釣り方を教えれば一生の食事になるだろう。人に宗教を与えれば一匹の魚を願いながら死ぬであろう」--作者不詳

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