エジプトで事件?
(iPhoneからだとココログにコメントが投稿できないので、ここでお返事)
エジプトで事件があったか検索してみましたが、それっぽいリンクはでるものの、肝心の記事にはとべませんでした。なんなんでしょうね。
(iPhoneからだとココログにコメントが投稿できないので、ここでお返事)
エジプトで事件があったか検索してみましたが、それっぽいリンクはでるものの、肝心の記事にはとべませんでした。なんなんでしょうね。
コシャリは代表的なエジプトの庶民料理です。スパゲティー、マカロニ、ご飯の三層構造になっていて、トッピングに炒めタマネギと少量の豆 (ヒヨコ豆か緑豆) をのせ、ニンニクの効いたピリ辛のトマトソースをからめて食べます。値段は50円前後から。
エジプトの職場では、他に選択肢がなくて毎日のようにコシャリを食べていました (→過去記事)。よくあれだけ食べたなぁと今更ながら思いますが、自分にとってコシャリは自身のエジプト生活を象徴する食べ物です。エジプト滞在中は、コシャリの有り様を通してエジプトという国を見ていたような気がします。
【絶望】
コシャリのレシピは思いの外スタンダードが確立されていて、どの店もほぼ同じ味。どこで食べてもまずくはないけれど、とりたてておいしくもありません。エジプト人は、なぜコシャリの具や味を変えようと思わないのでしょう。他店よりおいしいコシャリを作れば確実に儲かるはずなのに、味の改革を試みる者はまったく出てきません。まさに停滞するエジプトを象徴しているのではないでしょうか。
もちろん、明らかに他店より繁盛しているコシャリ屋もあります。そういったお店にも実際に行きましたが、基本形はすべて同じ。それでもやはりおいしいと感じるのは、まず油が新鮮なこと。案外油を多く使う料理なので、油が古いと臭くて一気に食欲が落ちます。炒めタマネギも作り置きしておくと酸化して胸焼けがしますが、その店はひたすら香ばしさが際だっていました。トマトソースもフレッシュ。何よりパスタとご飯がまったく臭くありませんでした。普通の材料を普通に調理すればこうやっておいしいコシャリができあがるのに、そんな当たり前のことを怠っている店がほとんどだということなのでしょう。エジプト社会全体にプロ意識というものが欠如しており、そのひとつの事例がコシャリだと思います。
その人気店のコシャリがおいしかったもうひとつの理由は、砂がまじっていなかったことです。アフリカ随一の大都市カイロは、大気中に砂、埃、NOxなどが大量に浮遊しています。ハムシーン (50日続くという春先の砂嵐) の季節には、家の窓を締め切っていても30分ほどでテーブルにうっすらと砂が降り積もりますから、客の出入りの多いレストランではなおさらです。コシャリは客から見えるように大鍋のフタをとって山盛りにされていますから、回転が悪いと客に出されたコシャリに微細な砂埃が入るのは当然。それが食べている時に口の中でジャリッとなるわけです。これは本当に気分が悪い。コシャリだけでなくシャワルマもモロヘイヤスープも、あらゆる料理に砂が入っていたような気がしますが、当のエジプト人は砂くらいまったく気にしません。こんな細かいこと、いちいち気にしていたらエジプト (カイロ) では生きていけないからです。でもいろいろな意味で、コシャリの砂を気にしない人がエンジニアにはなれないと思います。
【希望】
コシャリはきちんと作ればそれだけでも十分いけます。でも、たとえばトマトソースの代わりにもっと味の違うソースをそろえられれば、他店との差別化、味の向上、リピーターの増加、料金の上乗せがあっという間に実現すると信じています。ミートソース、ビーフシチュー、シーフードの煮込み、チーズソース、カレーソース、アンチョビソース、クリームシチュー、モロヘイヤ、バミヤ (オクラのトマトソース煮込み) などなど、汁っぽいものならなんでも合いそうです。グリーンカレーをかければタイ風、甘辛のすき焼きをかければ和風に早変わり。トリュフとは言わないけれどエジプト名産のカラスミを何切れかのせたら、50円のコシャリが500円で売れるでしょう。もともとコシャリは外国人旅行者にも人気がある料理ですから、毎年数百万人訪れる外国人向けの新しいコシャリを作らない手はありません。パスタの形をかわいいものに変えるのもいいですね。
コシャリという素性の良い料理には、大きなビジネスチャンスが秘められています。それに気付かず、あまりおいしくもないコシャリを文句も言わずもくもくと食べ続けていたエジプト人を、当時はかなりイライラしながら見ていました。新しい時代には、既成概念を打ち破る新しい味の出現が必要なのではないでしょうか。コシャリは十分そのポテンシャルをもっていると思うのですが。
そんなわけで、コシャリに対するいろいろな気持ちを抱きつつ、リヤドのフィシャーウィーレストランで9年ぶりにコシャリを買って食べました。レストランの前に大きく掲げられた、「コシャリ/テイクアウトオンリー」 の旗をウンウンとうなずきながら眺めた後、奥の店員に敬意を表してエジプト方言で 「アーイズ・コシャリ (コシャリください)」 と言って。
リヤドのオルーバロードに古くからある Al-Feshawi (フィシャーウィー) というエジプシャン・レストランに行きました。このブログにもさんざんエジプトの嫌な思い出を書いている自分ですが、食べ物についてもエジプトにいた3年間で本当においしいと思ったエジプト料理はゲジラ・シェラトンの 「カバブギー」 で食べたハトのグリルと焼きたてのパンだけで、わざわざエジプト料理を食べようなんて今までは思いもしませんでした。
ただ、サウジの仕事も終わりが近づいてきた今日この頃、今度こそ中東生活は最後かもしれないと思うと、無性にアラブ料理が食べたくなりました。またそう考えると、アラブ料理の中でもエジプト料理って思いの外異彩を放っているかも、などと思えてくるから不思議です。そんなわけで、あらためてエジプト料理の定番を食べておこうと、昔から評判のお店だったフィシャーウィーに行くことに決めました。
①モロヘイヤ
日本でもポピュラーなモロヘイヤ。あえて肉なしを選びました。見た目はスープですが、メニューの上では前菜のくくりです。ニンニクの効いた香ばしい香りと独特のネバネバがおいしくて、食べてる側から元気が出そうなスープです。エジプトで食べると有名店でもたいてい砂がジャリッとしていましたが、ここのはまったく問題なし。最後のひとすくいまでおいしくいただきました。これが当たり前なんだなぁと今更ながらに思いましたけど。
②ハマーム・マハシ
ハマーム (ハト) の中にスパイスで味付けされた麦ご飯を詰めて蒸し焼きにした料理。中にご飯を詰める料理をマハシといって、ズッキーニに詰めたりいろいろなバリエーションがあります。ハトの赤身肉はシコシコした食感で噛めば噛むほどジワッと出てくる肉汁が殊の外おいしく、皮もパリパリでさすが評判のお店と納得の一品。見た目は大きいですが肉はほとんどついていないのでペロリと食べられました。ご飯の方もピリ辛のスパイスが効いていておいしかったです。エジプト以外で食べるエジプト料理はおいしいんですね。
③ターゲン・ファッタ・サーダ
ターゲンは深めの鉢に材料を入れて調理されそのまま出される、壺焼きというか鍋のような料理。エジプトではターゲン専門店やターゲンの屋台もあります。肉やシーフードをトマト、ジャガイモ、タマネギなどと煮込んだターゲンもあれば、オクラやナスなど野菜だけのターゲンもポピュラーです。今回は毛色の違うものが食べたくて、「あれ、これ何だっけ?」 という感じでファッタの肉なしのターゲンというのを注文しました。出てきたものはいわば丼飯で、どうやらファッタとは別ジャンルの食べ物なのですが、とりあえずそのシンプルすぎる見た目よりもずっとおいしかったので良しとしましょう。ファッタはご飯の下に酸っぱいパンを敷くのが決まりのようです。エジプトならアエーシというエジプト人が古来食べ続けている国民的なパン (まずい) を使いますが、さすがにサウジでは普通のホブズでした。
ということで、当然ながら一人には十分すぎる量だったのですが、注文した後エジプト人の店員と次のようなやりとりがありました。
「スープは?」
「いや、モロヘイヤ頼んだから」
「サラダは?」
「もう十分だと思うから」
「ハトは1匹だけ?」
「いや、だから、本当にもう十分です」
「飲み物は?」
「水を」
「フレッシュジュースは?」
「あの、水だけで…」
いわゆるエジプト人気質というのでしょうか。ホスピタリティーにあふれているのか、金をとってやろうというのか、あるいは一人前の分量がまったく把握できていないのか、まぁいろいろなんでしょうけど、思い返せばエジプトではよくこんなやりとりをしていました。エジプト以外だとむしろ頼み過ぎだから減らせば?と言われることの方が多いのですが、やっぱりエジプトはどこか特別ですねぇ。
サウジアラビアのさるプリンセスを治療した際、痛み止めとしてモルヒネを使用した結果そのプリンセスが薬物中毒になってしまったことから罪を問われ、懲役14年と鞭打ち1500回を言い渡されたエジプト人医師がいます。鞭打ちは週に1度、70回ずつ打たれるそうです。
このニュースが世に出てからすでに1ヶ月以上たちます (鞭打ちも始まっています)。エジプト医師会や人権擁護団体がサウジアラビア政府に抗議を続けていますが、未だに解決をみていません。それどころか、メディアがサウジアラビアを非難するキャンペーンを行っていることに対して、逆にエジプト政府は 「メディアがそのようにするべきではない」 と極めて消極的な姿勢を示しています。
サウジアラビア国内で働くエジプト人は100万人以上。医療従事者も15万人に上ります。出稼ぎ労働者からの外貨送金がGNPの多くを占めるエジプトにとっては、サウジアラビアを含むアラビア湾岸産油国は大事なお得意様ということになります。怒らせては損だということなのでしょうか。しかも今回は王族がらみです。
プリンセスは乗馬の最中に馬の背中から落ち、背中 (腰) を痛めたのですが、アメリカでもこのエジプト人医師が行ったのと同じような治療が施されていたそうです。医師が独自に始めた治療ではないので、医師に罪がないことは明白であるとサポーターたちは主張しています。また、サウジアラビアでは公正な裁判が行われていないと憤りをつのらせています。
今回のケースが医療ミスによるものなのか、あるいは最善を尽くした結果なのか真相は闇の中ですが、それにしてもこんなに重く残酷な罰を科すようでは、この先サウジの王族を治療する医者が誰もいなくなってしまうのではないでしょうか。なんとか寛大な措置が下されることを祈ります。
今年もミスユニバースで若干世論が揺れているようですが、よく考えたら「世界一の美女を決める」という発想そのものに無理があることは否めません。顔の造形やスタイルについては最終的には各人の好みだし、外見で決められないとなると、あとはキャラクターとか社会性とか内面的な部分に焦点をあてるしかないのでしょうが、それにしても近年はクールビューティーよりもファニーフェイス寄りになっているような…。ツンとすました美人より親しみやすさの時代になっているんでしょうか。欧米の審査員はそれで良くても、特にアジア圏の一般大衆が果たしてそれを望んでいるかと言えば、やや疑問が残ります。日本を含むアジア各国の正統美女が、まさにその容姿のみで世界の頂点に立つ日は来るのでしょうか。
この分野ではこれまでほとんど情報開示がなかったアラブ世界の美女についても、ミスアラブワールドが開催されるなど、だんだんと秘密のベールが明かされつつあります。しかしながら、大会のホームページを見る限り、「まだまだこれから」といったところでしょうか。ポテンシャルはもっともっと高いと思います。ただ、どこの大会にも言えることですが、化粧は最小限にしてほとんどスッピンでの審査もやってほしいですけどね。
さて、エジプトです。3年間のエジプト生活で、美男美女を見た記憶は正直皆無なのですが (あくまで主観です)、強いてあげるなら、博物館で見た「ネフェルティティ王妃 (胸像/レプリカ)」が、「おっ!」と軽く声が出るくらいの美人だったでしょうか。エジプト人は男女ともにどちらかというとガッチリした体型の人が多く、顔のパーツもゴツイというかはっきりくっきりしているので、線の細さよりもダイナミックさを求める人にはきっと美しいと感じられるのではないでしょうか。
ある日、カイロの日本食レストラン、ヤマト (ナニワ) に行ったら、まさに「古代王朝風」の顔立ちをした女性店員がいて、きれい云々は別にしてちょっと感動してしまいました (写真)。よくよく考えたら、ネフェルティティの旦那さんのファラオ、イクナテン (アケナトン、アクエンアテン) の面影なんですけどね。でも遡ればきっと高貴な出のはず。
ケンタッキーフライドチキンに行ったときのこと。セットはいらないのでチキンだけ買いたいと店員に伝えると、突然アラビア語で「あんたの言っていることはわからないな、アラビア語で話さないと何も買えないよ、英語で注文する限りここにはあんたに売るものは何もない」とまくしたててきました。思いっきりエジプト方言 (カイロ方言) だったので、「あーあ、エジプト人か…」と思い、腹をたててもしょうがないので、横にいたインド人の店員に「チキンだけ買える?」とあらためて聞くと、エジプト人店員が今度は英語で「いくつ欲しいんだ、100個か?」とまたつまらない冗談を言ってきました。
エジプト人はダンム・ハフィーフ(Damm Khafif/軽い血=ネアカ)なので、良くいえばフレンドリーなのですが、まぁたいていの場面でずうずうしいというか今風にいえばKYと感じることの方が多いですね。ただ、今はダンム・サキール(Damm Thaqir/重い血=ネクラ)なサウジ人に囲まれているので、こうしてエジプト人の陽気な冗談 (笑えないけど) を聞くのも悪くないなと思いました。「で、いくつ買うの?、10個?、だったら店で食べてくだろ、たった10個じゃあここで食べれるだろ」 そうたたみかけてくるエジプト人の顔は、「今日も良い冗談を言ったぜ」という満足感に満ちあふれていました。ガックシ。
前にも書きましたが、ここでエジプト方言 (カイロ方言) の復習を。このキーワードを言ったらその人はエジプト人に間違いありません。
*イッザイヤック (元気ですか)
*アーイズ・エー (何が欲しい?、したい)
*マフィーシュ (無い/否定形の語尾に"シュ")
*マー・アンディシュ (私は持っていない)
*マー・アアラフシュ (私は知らない)
*ガミール・ギッダン (とても美しい/J音がG音に)
*バクシーシ (心付け、賄賂/ちょっと卑しい言葉)
12月2日付サウジガゼット紙によれば、11月に国内で鳥インフルエンザ(H5N1)が報告されて以来、これまでに430万羽の家禽が処分されたとのことです。これは、現在鳥インフルエンザが見つかっているサウジアラビア内陸部のリヤドおよびハルジ地域から、他地域への感染の拡大、特に来週から数百万人が巡礼に訪れる西部地域(ジェッダ、マッカ)への伝播を防ぐためにとられた施策です。農業大臣による記者会見では、鳥インフルエンザが急速に広がっている状況説明と、それに対してすべてのセクターからの協力が必要との発言がなされました。また、この手の記者会見ではお決まりの、「鶏肉も卵もちゃんと火を通せば問題ない、私は今朝も卵を食べた」という大臣のコメントもありました。
さて、鳥インフルエンザはこの10年ほど、世界各地で見つかっているわけですが、鳥から人への感染となると、まだまだ報告例は限定されています。私自身、人への感染となると、なんとなく東南アジア中心というイメージがありました。しかし、WHOの発表を見ると、実はサウジの隣国エジプトで意外に多くの発症例があることがわかります。家禽(鶏、鳩)はもっとも親しまれている食肉であり、かつカイロでは、仕事を求めて上京してきた数百万人の人々(家族)が、結局たいした職にもつけず、劣悪かつ不衛生な環境下での生活を強いられているという事実もあります。私の家の近所(ザマレク地区)でも、高層マンションの1階駐車場スペースの一角に、鶏の囲いの中で暮らしていた親子がいました。(←さすがにこれは泣けた)
ただし、中東諸国ではもっとも国家として成熟し、かつ医療体制も整っているエジプトだからこそ、このように症例の発見が早く、またそれが国民に随時発表されるのだとも思います。経済的には大きな打撃になるはずですが、「大人の国」としての責任感がきちんと見て取れます。逆に、他のアフリカ諸国では、比較的高所得国であるナイジェリアとジブチ以外、まったく報告例がないことには、むしろ怖さを感じてしまいます。もちろん、感染状況を完璧に把握することなど、どだい無理な話だとは思いますが。
エジプト離任の前日、会議室のテーブルを囲み、最後にエジプト人スタッフと一緒にお茶を飲みました。「エジプトはどうだった?」とスタッフが口々にたずねてきます。3年間のエジプト勤務は、仕事・生活ともにあまり良い思い出がありません。正直、文句しか浮かんできませんでしたが、そこは大人の対応で「すべてが素晴らしかった」とルクソールやシナイ山に旅行した話を身振り手振りを交えて話しました。スタッフもフンフンとにこやかにうなずいています。しかし、実際にはエジプトがあらゆる面でひどい国 (外国人には暮らしにくい国) だということはさすがにスタッフもわかっているだろうし、良い話ばかりしたら逆に本音を言わない腹黒い奴だと思われるかもしれないと考えて、「そうだ、ひとつだけ残念なことがある」と切り出しました。みんな興味津々で身を乗り出してきます。私はおもむろに「お札が汚いのはちょっと嫌だったなぁ」とサイフから真っ黒な1ポンド札を取り出し、笑顔で言いました。少なくとも汚いお札が流通しているのは厳然たる事実で、しかも彼らの目の前に実物を提示しています。私にしてみれば、みんな苦笑しながら「そうだよねぇ」と言ってくれるのを期待していたわけです。
ところが、そこからスタッフ同士でちょっとした討論が始まってしまいました。「何かの間違いだ」「いや、お札が汚いのは事実だ」「お札を管理しているのはどこか」「造幣局と財務省の関係は?」「現金流通システムを改善すべきだ」「銀行が古い紙幣の回収を拒んでいる」「政府は何をやっているのだ」などなど、もう喧々囂々。最終的には、リーダー格のスタッフが「そのようなお札があなたの手に渡ったことを申し訳なく思います、然るべく関係機関に要請をするなど、今後そのようなことが起こらないよう働きかけをしたいと思います」と淡々と発言し、殺伐とした雰囲気のまま最後のお茶会は終わりました。この時学んだ教訓。エジプト人には、絶対にエジプトの悪口を言ってはいけません。それが曲げようのない事実であっても、例え冗談口調であっても、さらにはエジプト人が発した自国の悪口に同意した言葉であっても、外国人にそう言われるとエジプト人はものすごく気にします。そして、その指摘を否定しようとして不毛な議論・口論が始まります。みんなそれなりに社会に対して不平不満はあるのでしょうが、外国人にそういう汚点を突かれるのは嫌なんですね。ややこしい人たちです。
まだまだ書き残しもありますが、ひとまずエジプト編はこのくらいにします。
エジプト人は、楽しいこと、刺激的なことが大好きです。しかしエジプトの社会経済状況では、人々は娯楽にお金を出す余裕がありません。そのため、彼らにとって最大の娯楽は、人とのふれあいです。友達とのおしゃべり、新しい友人を作ること、外界の珍しい話を聞くこと。週末は入場料の安い公園や公共の施設に集い、日がな一日おしゃべりにあけくれます。またエジプト人は、無類の感激屋です。単純なことに感動し、笑い、泣き、怒り、1日1日を目一杯生きています。そんな、世界一人恋しいエジプト人が大量にいる週末のカイロ動物園に行くとどうなるか、それはもう推して知るべしです。日本人やアジア人など何十万人もエジプトに来ているというのに、何が珍しいのか、入場する前から何人ものエジプト人がウロチョロ後ろをついてきます。先に進むにしたがって周りのエジプト人の数はふくらみ、50人近くなったところで (ハーメルンの笛吹男か!?)、私はついに音をあげました。もう彼らのうち誰ひとりとして動物など見ていません。彼らの関心は完全にこちらに向かっています。やや遠巻きに50人からジロジロと見つめられるプレッシャーに私は耐えることができず、足早に動物園を後にしました。もし何かのきっかけを与えていたら、きっと洪水のように話しかけられていたでしょう。そしてそれは、彼らにとっては楽しい思い出になったとしても、私にとっては限りなく不愉快なことだったでしょう。「動物園に行くと、逆に自分が見られる」という先達の警告は本当でした。結局、動物園には1度しか行っていません。また、アパートから歩いて外出するといつも似たような状況になるので、カイロでは散歩をするのでも毎回ストレスが溜まりまくりでした。「カイロっ子は人なつっこくて明るい」というのは十分わかりましたが、少なくとも私はそっとしておいてほしかった…。
エジプトはあれだけ素晴らしい世界遺産がありながら、なぜかあまり良いお土産がありません。ハンハリーリスーク (Khan Al-Khalili) で売られている物も、古代遺跡出土品のレプリカとか香水瓶くらいしかありませんが、どれも稚拙な代物で、安かろう悪かろうといった物ばかり。もっと精巧で、工芸品レベルの物を作ればそれなりの値段で売れると思いますが、そういった物にお目にかかったことはありません (楽器はちょっと心惹かれました)。日本から来た出張者にも良く聞かれたのですが、私が唯一お土産としておすすめしていたのは、カイロ中心部、ナイル川に浮かぶ船を改造して作られた「Dr.ラガブのパピルスインスティチュート」です。そこで売られている多彩なパピルスには、古代遺跡の壁画が「そのままの色」で再現して描かれています。ただし、赤、青、緑などのベタッとした色合いや、あるいはリアルさを追求して色のないものはそのままに再現しているところから、一見地味な印象を与え、ハンハリーリで売られているような金銀の絵の具を多用した派手な色合いの物に比べて見劣りするという人もいます (値段もDr.ラガブは高い)。しかし、あえて言うならやはり壁画そのままを再現した物が「本物」なのではないでしょうか。写真はハンハリーリのパピルス屋。「死者の書」の一場面が派手な色で描かれていますが、こういう色づかいはやはり違うと思うわけです。Dr.ラガブには隠れた名品「泥人形」もあるので、そちらも是非。ちなみに Dr.ラガブのパピルスはラムセスヒルトンでも売られていましたが、若干割高でした。

エジプトでは毎年車の登録を更新します。その時、交通局で過去1年間の交通違反の罰金を精算しなければなりません。交通違反といっても、ほとんどは駐車違反です。違反切符は、直接運転手に手渡されたり、ワイパーのところにはさんであったりしますが、最終的に何回駐車違反をしたか、罰金がいくらなのかは、登録更新の時になって初めてわかります。通常、外国人が所有する車は、まったく違反切符をもらっていなくても、100ポンド (3000円) くらいは罰金が科されています。日本人も「これはバクシーシ (施し・チップ・賄賂) だから仕方ない」といってさほどクレームもつけずに払っている人がほとんどでした。ある年、1人の日本人が車の登録を更新する時、1000ポンド以上の罰金を言い渡されました。他の人と同じくほとんど違反切符はもらっていません。さすがに頭に来たのか、その人は交通局に乗り込んで直談判を試みました。しかし先方の態度はあくまでその額を払えというものでした。ヘッドオフィスを巻き込みしばらく交渉が続きましたが、2週間ほどして先方も音をあげたのか「いくらなら払えるのか」と聞いてきたそうです。あまりにいい加減な態度にますます憤慨して、ヘッドオフィスのエジプト人スタッフに相談したところ「これは良いチャンスだ、いくらなら払えるのか」と信じられない言葉を耳にすることになり、その人は思わずヘナヘナと腰くだけになったそうです。そして「200ポンドくらいなら」というひと言で、事態はあっという間に決着がついたのでした。いい加減? それともフレキシブル?
エジプト観光のハイライト、ルクソール。無数のレリーフに彩られた巨大な神殿にも圧倒されますが、なんと言っても最大の目玉は王家の谷です。王家の谷はその名の通り古代王朝の王たちが自らの墓をつくった秘密の谷です。近世になってその存在を世界が知るところとなった時には、すでにほとんどの墓は盗掘されていて、それ故1922年のツタンカーメン王墓の発見は世界に大きな驚きをもたらしました。王家の谷にはエジプト史に名を残すそうそうたる面々の墓があり、副葬されたであろう財宝はすでに失われているものの、内部の装飾には目を見張るものがあります。あらゆる壁という壁にレリーフが施され、エジプト神話や神に導かれる王の物語がこれでもかというほど描かれています。王家の谷の中でも、ラムセス6世 (だったかな?) の墓の天井に数メートルの大きさで描かれた天空の神ヌトは、今でも目の奥に焼き付いています。
王妃の谷は、王家の谷とは少し離れた場所にあります。ラムセス2世の王妃であるネフェルタリの墓の内部には、王妃や神話の神たちが大胆に描かれています。修復されたとはいえもともとの色を再現したものですから、これらの色鮮やかな絵を遙か三千数百年前に描いた古代エジプト人のイマジネーションの豊かさ、芸術性の高さ、技術的な緻密さに心底驚かされました。ネフェルタリの墓は、エジプトに残る古代壁画のうちでもっとも美しいものと言われるだけあって、私がこれまでに見たどんな美術品よりも感銘を受けました。墓から1歩地上に出れば、そこには荒涼とした灼熱の砂漠 (土漠) が広がるばかりです。王家の谷、王妃の谷には、地下数メートルに広大な宇宙が広がっているのです。



エジプト神話によれば、世界の始まりは原初の水です。その水面へ浮かびでた卵 (他説ではハスの花とも) から、天地の創造者「ラー」が誕生したと伝えられています。ラーはシュー、ゲブ、テフヌト、ヌトの4人の神を生みだしました。シューとテフヌトは大気、ゲブは大地、ヌトは天空となり、ラーがそのすべてを支配しました。その後ゲブとヌトは、セトとオシリスの2人の息子、イシスとネフテュスの2人の娘をもうけました。オシリスは妹イシスを妻としてラーの後継者となり、国民に対して法律、農業、宗教などの文明を説きましたが、弟の邪神セトにねたまれて殺害されます。セトはオシリスの体を細かくさき肉片をまき散らしましたが、イシスは肉片をみつけて土にうめ、その場所はそれぞれ神聖な場として崇拝されました。イシスはアヌビスの助力をえて、夫オシリスの遺体に防腐処置をほどこしましたが、このためアヌビスは防腐処理 (ミイラ作り) をつかさどる神とされました。イシスの魔力によって復活したオシリスは、死者の国の王となります。のちに、オシリスが一時的によみがえってイシスに生ませた息子のホルスは、セトとたたかって勝利し、世界を支配しました。オシリスは冥府の支配者として地下世界で生きつづけましたが、ホルスを生んだことによって、死と生あわせ持つ神となりました。
エジプトの神々は、人間の体と動物の頭部をもつ姿で表現されました。ラーの頭部はハヤブサであり、ハヤブサは天空をすばやくかけめぐるところから、ラーの聖鳥とされました。ホルスもハヤブサです。愛と美の女神ハトホルは、雌牛の頭部で象徴されます。死者の神アヌビスはジャッカルの頭部を持ちますが、これはジャッカルが死者の国とされる砂漠を徘徊する動物だからです。ムトはハゲワシ、トートはトキの頭部を持ちます。プタハは人間の姿をしていますが、アピスとよばれる雄牛の姿で描かれることもあります。写真はパピルスに描かれた「死者の書」(紀元前1310年頃)。死者となった王室書記フネフェルが、ジャッカルの頭をもつアヌビス神に手をひかれ、心臓の重さをはかる儀式に導かれています。トキの頭をもつトート神がそれを記録。右奥では死と生の神オシリスがイシスおよびネフテュスとともに待っており、42項目の審問を受ける「死者の裁判」ののち、死者の魂に価値があれば永遠の生命が与えられます。
![]()
カイロから南西約300kmのところに、バハレーヤオアシスがあります。バハレーヤは小さな村ですが、温泉が出るため昔から保養地として知られた場所でした。そんなひなびた村で、古代エジプト時代のお墓が発見されました。私が行った時はまだ考古学的な検証は進んでおらず、出土品もたいして整理されていませんでした。ミイラも何体かありましたが、事務所の倉庫に雑然と置かれていただけです。まだ情報が世界にほとんど発信されていない、見つけたてホヤホヤのミイラを見ることができたのは幸いでした。あれから何年もたちましたが、今頃バハレーヤのミイラはどこにあるのでしょう。カイロの考古学博物館の、できれば一等良い場所に飾ってあってほしいなぁ。



時は1999年7の月 (新暦8月)、エジプトは皆既日食を迎えました。あのノストラダムスの大予言がいよいよ成就かと世間が騒いでいた頃です。私はその時日本に休暇で帰っていましたが、カイロに残っていた人に聞くと、その日は日食の前に公務員はすべて帰宅しても良いという指示が出たそうです。なんでも、皆既日食の光を浴びると (闇を浴びると?) 体に良くないという迷信があるとのことで、政府も国民の意見を無視できなかったようです。帰宅したエジプト人は窓に暗幕を張り、けっして日食を見ないようにしました (写真は職場から見える公務員宿舎)。その日、町は静まりかえったと言います。この時はあえて日本に帰っていたんですが、ちょっと惜しいことをしたかな。

カイロでも指折りの5ッ星ホテル、ラムセスヒルトン。まぁ、従業員のサービスはお世辞にも5ッ星とは言えませんが、考古学博物館の裏という立地条件の良さと内装のゴージャスな雰囲気、そしてその割にはお手ごろな値段という条件から、いつも観光客やビジネスマンでにぎわっていました。毎年夏になると、アラビア湾岸産油国から長期の避暑客がカイロに押し掛けます。ラムセスヒルトンも例外ではなく、7月から8月にかけてはロビーにトーブ (アラビア半島の伝統的な男性の服) を着た人がたくさんいました。ある時、日本から来訪者があって、ラムセスヒルトンのロビーで待っていました。待ち合わせ時間になっても降りてこないので、部屋に電話をすると3人が3人とも部屋にいません。おかしいと思いつつ15分ほど待っていると、3人はエレベータではなく階段を使って降りてきました。事情を聞くと、最上階をサウジアラビアの王族が借り切っていて、エレベータ1台を専用に使っていること、また残りのエレベータも普段なら自動で1階に戻って待機するところを、プログラミングを変えさせて常に最上階で待機するようにしてあるとのことで、とにかくエレベータが来ないのだそうです。いやぁ、お金の力ってすごいなぁ。
ラムセスヒルトンといえば、隣接したショッピングセンターにある日本食レストラン「やまと」です (以前は「なにわ」)。小池百合子さんのご両親が経営しているそうで、店内の座敷には小池さんのアラビア語習字 (「アルホッブ (愛)」だったかな?) も飾ってありました。日本から来た観光客にとっては、明らかに日本より味がおちる日本食を食べる意味は薄かった思いますが、カイロの在留邦人あるいはアフリカから来た日本人観光客にとっては、このお店の存在はとても大きいものでした。「やまとに行けばいつでもお寿司が食べられる」という安心感は、何物にも代え難いものでした。私自身はそうやって安心しちゃったためあまり行きませんでしたけど。
私がこのブログで書くところの「アラブ人」というのは、いつも大体「遊牧アラブ人」であるアラビア湾岸諸国の人たちを指しています。一番開かれたアラブ世界としてダントツに外国人旅行者が多く、また外交的にもアラブの代弁者としてみなされるところから、「エジプト=アラブ」「アラブ=エジプト」と考える人は多いと思いますが、個人的には、エジプトはちょっとアラブとは別世界だなぁと感じます。そもそもアラブ人とは誰のことか。「アラビア半島にかつてあるいは現在住み、アラビア語を母語としている人々」というのが一般的な定義ですが、さらに「イスラム教」も重要な要素となっています (レバノンは人口の半分がキリスト教徒ですが)。この定義によれば、遊牧民と農耕民の区別は意味がないかもしれません。しかし、国民のほとんどが農業に従事しているエジプトと、今でもベドウィンそのもののような精神風土を持っているサウジアラビアでは、体格から考え方まであらゆる面において違いがあります。しかもエジプトは世界有数の歴史を持っています。7世紀にアラビア半島からエジプトに侵入したイスラム戦士たちは、当時エジプトを支配していたビザンチン勢力を追放することに成功、現地に根を下ろしていきました。ここでアラビア半島のアラブ人とエジプト人が同化したという説もありますが、数的に言ってアラブ人の血がまんべんなくエジプト人と混じったとは考えにくいのも事実です。つまり、大多数のエジプト人は古代ファラオ時代から続くオリジナルエジプト人の末裔であると言えるのではないでしょうか。そしてそれはとても誇らしいことだと思います。ということで、私にとってエジプトはあくまでエジプトであり、アラブとは言い難いものなのです。
エジプト農耕民とアラビア遊牧民の違いをひとつ。もしエジプト人が人前でオナラをしてしまったらそれは単なる笑い話ですが (豆をよく食べるのでオナラも多い)、遊牧民に「お前、今オナラしただろ」などと言ったらそれこそ決闘ものの侮辱にあたるそうです。人前でオナラをすることは、遊牧民にとってはちょっと信じられない行為だそうなので、十分注意しましょう。ヨルダン南部のワディ・ラムに行った時、同行した人が砂漠ツアーガイドのベドウィンの前で「ププゥ~~」と大きいオナラをしました。あの時のガイドの顔は今でも忘れられません。目をつり上げ、肩をワナワナ震わせていました。「あぁ、本当にダメなんだなぁ」と私には納得の一発でした。(写真はカイロのデーツ売りとヨルダン南部のベドウィンテント)


スエズ運河は紅海と地中海を結ぶ全長163kmの人口水路です。水底の最低幅60m、喫水16m、空船時で15万tの船の航行が可能です。地中海とスエズ湾の水面がほぼ同じ高さなので、パナマ運河のように船を押し上げるための閘門 (こうもん) は必要ありません。ほとんど一方通行ですが、一部にバイパスがあり、相互に航行できる場所もあります。1859年に工事が始まり、10年後に開通しました。工事費用は1億ドル。しかしその後の修復と改善に3倍の費用がかかったと言われています。
ある年、自衛隊の練習船がスエズ運河を航行する折りに、エジプト在住の日本人が船内見学ツアーに招待されました。私はカイロで留守番のため行けませんでしたが、行った人に話を聞いてみると、貨物船、タンカー、空母などがひっきりなしに通っていたそうです。驚いたのは、潜水艦まで通っているという事実でした。レギュレーションがあるため船体を隠すことができず、丸見えで航行している潜水艦というのは、なんだかとてもユーモラスです。



ベリーダンスは、中東・北アフリカのイスラム文化圏に見られる女性舞踊です。Bellyはお腹の意。魅惑的な薄手の衣装を身にまとい、流れるように腕を動かしながら、円を描くように腰をふって踊ります。観客に近づき、上体をそらしながらブルブルと胸を揺さぶるなど、かなり扇情的でエロチックなダンスです。カイロでは大手のホテルで見ることができますが、ナイル川ディナークルーズにも必ずベリーダンスショーがついています。カイロで踊るダンサーの数は多く、その腕前と容姿はピンキリですが、役所のエジプト人スタッフと一緒にディナークルーズに行った時は、人気急上昇中のダンサーを見ることができました。彼女はアルゼンチン育ちのエジプト人ダンサーで、その容姿と踊りのテクニックはもちろん、出し惜しみしないサービス満点のダンスが最高でした。ベリーダンスはもともとエロチックなものですから、ダンサーによって「私はあまり腰も胸もふりませんよ」なんて上品にやられてしまうと、ちょっと気分がそがれてしまいます。ダンサーは思いっきり腰を振る、そして観客 (の男性) はヒャーヒャーはやし立てて盛り上がる、それこそが正しいベリーダンス鑑賞だと思います。芸術ではなく芸能ですからね。
イスタンブールで見たベリーダンスは、ダンサーがファッション誌のモデルのようなスレンダーな体型でした。その時は「きれいだなぁ」と思いましたが、「本家」のエジプトで見ると、ベリーダンスの極意は「三段腹」がブルブルふるえるところにあるんだと思います。どうやらアラブ人はその肉付きに女性の色っぽさを感じるようで、若くて細いダンサーが出てきてもいまいち場が盛り上がりません。私もある程度「脂がのった」ダンサーの方がベリーダンスっぽくて良いかなと思うようになりました。でも最近は観光客に合わせてか、ダンサーのスリム化が進んでいるような…。日本人ダンサーの「カスミさん」も見ましたが、まだまだ細すぎるかな?



ラマダン中は普段にも増して通勤ラッシュがひどくなります。みんな「この1ヶ月くらいは勤務時間を守ろう」と思うのかどうか、いつもは30分で行ける15kmくらいの道のりが、1時間以上かかるようになります。うちのスタッフも普通は朝1時間遅く出勤して、午後は30分くらい早く帰るのが当たり前でしたが、ラマダン中はみんな真面目モードに変身していました。特に職場からの帰りの道はひどくて、2時間かかることもよくありました。渋滞の原因は、車が同じ時間に集中することもありますが、やはり運転マナーの悪さがあげられます。ちょっと混んでくると、たちまち反対車線を逆送する人が続出するのです。もちろん向こうからも車は来ますから、そこで車どうしが鉢合わせ、お互いにクラクションを鳴らして睨み合い、なんてこともしょっちゅうでした (というか毎日)。みんなお腹が減ってイライラしているせいか、クラクションを鳴らす回数も激増しました。車は前に進まない、周りからはクラクションの渦、明らかに通行妨害をしている無茶な運転…。こんな光景を毎日毎日見続けたら、頭がおかしくなります。エジプト生活のうち思い出したくないことのひとつです。
ラマダン中は日没前になると車が町から姿を消します。日没直前にタクシーを拾うなどとても無理。普通はみんな家で家族とイフタールを食べ、そして夜になるとこぞって町に繰り出します。ハンハリーリでイフタールをすませ、音楽会をちょこっとのぞき、夜10時頃、帰路についたときのことです。タハリール広場に抜ける高架道路はあいかわらず渋滞で、なかなか車が進みませんでした。下を見てみると広場には人と車があふれ、「まだまだ夜はこれから」といったやる気満々の空気に満ちあふれていました。渋滞がひどかったので車を降りてそれを見ていたら、なんだかこちらまで楽しい気持ちになってきました。本当に、夜更かしが大好きな人たちなんですね。中東に旅行するなら、ラマダン中こそお勧めです。
「Breakfast (朝食)」とは、その名が示すとおり「Break (破る) - Fast (断食)」ですが、その昔ヨーロッパでは夜の間食事を絶つ習慣があったため、朝食べるご飯をこう呼んだのだそうです。イスラム諸国では、ラマダン (断食月) の期間、日没後に食べる食事を「イフタール (Breakfast/朝食)」と言います。ラマダン中に「明日 ”Breakfast” を食べに行こう」と誘われたら、それは私たちの言う朝食ではなく、夕食にあたります。ハンハリーリスークは観光客が必ず一度は行く有名なスーク (マーケット) で、シシカバブなどを出すレストランがたくさんあります。ラマダン期間中はレストランが前の広場にテーブルを並べ、イフタールの食事セットを売り出すので、それを狙って観光客から地元人まで、広場は毎日ごった返しになります。その中を、大型観光バスが人の波をかき分けながら進むのですから、事故が起きやしないかと見ているこっちがハラハラします。とにかくハンハリーリのイフタールメニューは有名ですから、日没の1時間近く前に行かないと席が確保できません。席を取ったら、しばらくは何も口にせずじっと日没を待ちます。なにしろ周りには観光客以外にもエジプト人がたくさんいます。彼らが最後の我慢をしているときに、こちらが水など飲んではさすがに失礼です。
日没の10分くらい前から、テーブルにはイフタールの食事が配られます。辺りにはシシカバブの香ばしい匂いが立ちこめ、空腹のあまり頭がクラクラしますが、ここはあと少しの辛抱です。日没を迎えると、ハンハリーリの真横にあるフセインモスクから「アザーン (礼拝の呼びかけ)」が聞こえてきますから、それを合図に食事が始まります。しかしいきなりシシカバブにかぶりついてはいけません。食事と一緒に配られた、甘いデーツ (ナツメヤシ) のジュースをゆっくり飲み干し、胃の調子を整えてから食べ始めるのがイスラム流です。ハンハリーリ周辺は普段からにぎわっているところですが、ラマダン中はひときわ賑やかさを増します。空き地という空き地を人が埋め尽くし、それぞれのイフタールを楽しんでいます。食事の後は音楽会やダンスなど、毎晩いろいろな催し物が目白押しです。イスラム教徒にとって、ラマダン (断食月) は宗教行事であると同時に、一種のお祭りのようなものだと思いました。


シナイ山に登りご来光をおがんだのは、私にとってエジプト観光のひとつのハイライトでした。子供の頃から親しんできた旧約聖書。その中でもモーセの出エジプト記は、スペクタクルシーンや示唆に富んだ物語がふんだんに盛り込まれ、単純に読み物として素晴らしく面白いものでした。出エジプト記は、研究家によれば紀元前13世紀頃の出来事であったと言われます。すべてが真実の出来事とは思いませんが、十戒にまつわる何らかのストーリーがシナイ山で紡ぎ出されたのだと考えると、静かな興奮を覚えます。十戒の配列にはいくつか解釈がありますが、ユダヤ教では、(1)序文、(2)ヤハウェ以外の神々を信仰したり偶像崇拝をしてはいけない、(3)神の名をみだりによんではいけない、(4)安息日をまもらなくてはいけない、(5)父と母を敬うこと、(6)殺してはならない、(7)姦淫してはならない、(8)盗んではならない、(9)偽証してはならない、(10)隣人の財産や妻を欲してはならない、となっています。その後十戒はヘブライ人の律法の基礎になり、その思想はキリスト教にも引き継がれるわけですから、現在世界の多くで信奉されている道徳観は元を正せば十戒に行き着くことになります。十戒がなかったら、あるいは十戒のストーリーが聖書という形で現世に伝えられなかったら、今の世界はかなり違ったものになっていたのだろうかと考えると、大変に感慨深いものがあります。
我々は午前2時にホテルを出発しました。バスでシナイ山のふもとに到着したら、9合目くらいまで登るのを歩きにするかラクダに乗るか決めます。登山といっても、実際にはつづら折りの急坂をひたすら歩いていくちょっときつめのハイキングといった感じで、私はそれほど大変とは思いませんでした。ガイドなんて革靴で歩いていたし。逆に、ラクダに乗った人は、乗り心地の悪さと凍てつく寒さにまいったそうです。午前4時、9合目から最後の石段に向かいました。約600段ある石段は、誰もが歩かなくてはならない最後の難関です。足をひきずりながらようやく頂上に着くと、すでに何十人も観光客 (巡礼者) が朝日の来光をいまかいまかと待っていました。空が白みはじめ、ようやく朝日が上るのを見た時は、三千数百年という時の流れが一瞬にして凝縮されたような錯覚に陥り、ちょっと泣きそうになってしまいました。余談ですが、10の戒めが授けられたということは、当時それだけ風紀が乱れていた証拠なのかもしれません。「隣人の妻を欲してはならない」って、不倫とか略奪愛が流行っていたの?



あらためて数えてみたら、シャルムには3年間で9回も行っていました。いつも週末2泊3日の小旅行でしたが、カイロの生活で感じる激しいストレスを一時でも忘れることができる、貴重な逃げ場所でした。初めの頃は、高級ホテルやお土産物屋、レストランが集中するナーマベイにホテルをとっていましたが、界隈が昼も夜もゴチャゴチャと騒がしいので、次第にナーマベイを避けるようになり、後半はいつもバロンホテルというところに泊まっていました。バロンはナーマベイから遠く、悪くいえば孤立しているのですが、その分プライベートビーチは人もまばらで、海も荒らされておらず、私にとってはとても快適なものでした。宿泊料には朝晩の食事代も含まれていて、ビュッフェスタイルの夕食は日替わりでイタリアン、インディアン、シーフードなどとテーマが決められています。毎回「カイロとは大違いだなぁ」と感動しながらお腹いっぱい食べていました。
シャルムにはイタリアからの直行便もあります。バロンにもイタリア人がたくさん来ていて、よくビーチでバカップルが他人の目をはばかることなく、堂々とイチャイチャしていたものです。ごくたまに、アラブ人とおぼしき女性がビーチにいましたが (サウジとか湾岸諸国の人?)、体の線を他人にさらすことはできないのでしょう、だいたいダブダブの服を着ていました。欧米人女性がトップレスで堂々と寝ころんでいる鼻先で、アラブ人女性が黒いベールのまま海に浸かっている様は、文化の違いを如実にあらわしていてとても興味深いものでした。日本人にしてみれば両方とも極端ですが。



アスワンの魅力を伝えるのは難しい。ルクソールのように偉大な遺跡があるわけでもなく、ナイルデルタのように緑が豊かでもない。もちろん刺激と喧騒に満ちたカイロとは比ぶべくもない。とにかく何もない。ただそこにはナイル川があるだけ。観光といってもナイル川でファルーカ (帆掛け船) に乗るくらいしかないが、しかしそれが実に良い。夕方、太陽が沈みかけた頃、ファルーカの上で風の涼しさを感じるのが心地良い。ナイルの水をさわると思いの外冷たく、その時、自分は確かにエジプトにいるのだと実感するのが良い。カイロやルクソールで、現実離れした古代遺跡のボリューム感にリアリティーを失いそうになったら、アスワンに来るのが良い。そこで初めて、等身大のエジプトに触れることができる。


それは8日間のエジプト旅行を無事に終え、カイロ国際空港に着いた時でした。ちょっとお腹がゴロゴロしてきたので、ターミナルの外に併設されているトイレに行きました。中のトイレの方が確実にきれいだとは思ったのですが、チェックインと出国手続きをしてからだとまだ小1時間我慢しなければなりません。観光地では数々の汚いトイレに悩まされましたが、いくらなんでも国際空港、そうそう汚いわけはないと考えつつ、小走りにトイレに駆け込むと、いきなり異臭が鼻をついてきました。一気に嫌な予感に襲われましたが、ここまで来たからにはとりあえず確認だけはしようと思い、3つのうち空いていた1番奥の個室をのぞき込みました。「うっ…」 一瞬にして体が固まり、内部の惨状に目が釘付けになりました。洋式便器の中には、数人分のものと思われるウンチがこんもりと山盛りになっていたのです。ナイル川があるとはいえ、カイロは慢性的な水不足です。トイレの水が流れなくてもそれをせめるわけにはいきません。しかしこのウンチの山は相当心理的圧迫を与えます。おそらくこの山に恐れをなした人が腰を浮かせてトライしたのでしょう。うまく下に落ちずに、便座のふちに立派なウンチがひっかかっていました。
思わず便座から視線をそらしましたが、果たしてその先には、個体とは言い難いウンチが床に広がっていました。この人もお腹を壊してここに駆け込んだのです。しかし便器は座れる状態ではありませんでした。誰もこの人をせめることはできません。それにしても世の中にはそそっかしい人がいるようで、たぶん何も考えずに、目すらつぶってここに入ったのでしょう。床の液状ウンチを踏んでズルッとすべった跡があります。その人は不用意な1歩に大いに涙したことでしょう。肩を落とし無念の表情を浮かべながらクツを洗う、寂しい男の姿が目に浮かびます。ここで私は茫然自失、天を仰ぐしかありませんでした。しかし天を仰ぐ瞬間、私の目に飛び込んできたのは、壁に残された何本もの茶色い筋でした。エジプトのトイレに紙などありません。男達は迷い、乱れ、絶望し、神を呪い、そして手でぬぐい取ることを決心したのです。指についたものを壁になすりつける時、男達の胸中に去来したものはなんだったのでしょう。「こんなことをするために生まれたのではない」 誰もがそう思ったはずです。あぁ、無情…。(ちなみに私の方は引っ込んじゃいました。当たり前!?)
あまりタクシーの悪口ばかり言っても仕方ないので、良い思い出もひとつ。考古学博物館を見た後、カイロ市内を観光しながらひたすらてくてくと歩き、ムハンマドアリーモスクにたどり着きました。カイロの地理を知っている方なら、これがけっこうな距離だということがおわかりでしょう。モスクには1時間ほどいましたが、さすがにまた歩いて帰る気にはなれませんでした。暑さはまだしも、あまりにも排気ガスがひどいからです。しかしサイフを確認すると、12ポンド (390円) しかありませんでした。ホテルまで戻れるか微妙なところです。ガイドブックを取り出し、「こことここが距離○kmで値段は○ポンドだったから…」と計算をしてから、まぁなんとかいけるだろうとふんで、タクシーをつかまえました。最悪、メーターが12ポンドになったら事情を話してそこで降りれば良いと考えました。タクシーに乗り込み運転手に「ザマレク」と伝えると、走り出してまず運転手がたずねてきたのは、「町の中心部は渋滞がひどいから迂回して良いか」ということでした。わざわざ聞いてくるくらいですから、私をだまそうとしているわけではなさそうです。確かに渋滞がひどいことは事実ですし、渋滞中も料金は加算されますから、私も「マーシ (いいよ)」と答えました。
しばらく走っていると、水道橋が見えてきました。地図を取り出して道を確認すると、かなりの遠回りで、いったん目的地から遠ざかるようなルートです。「ちょっと遠回りすぎない?」と言うと、運転手は「でもこっちの方が時間はだいぶ短いよ」と答えました。メーターが12ポンドになってどうせ途中で降りるなら、少しでも目的地に近づいておきたいと思っていたので、この選択は失敗だったかなと少し後悔しました。また、迂回路といえども、結局みんな同じことを考えるので、それほどスイスイと走れたわけでもありませんでした。とにかくメーターはジワジワと加算されていきます。8ポンドを超えたあたりから私はもうメーターから目が離せなくなり、10ポンドになって、ついにおずおずと運転手に事情を話しました。サイフを広げ「ごめん、12ポンドしかないんだ、12になったら降りるよ」と伝えると、運転手は「え、本当にないの?、うーん」と考え込んでしまいました。ほどなくメーターは12ポンドになり、「ここでいいよ、止めて」と言ったのですが、運転手は黙ったまま車を走らせ続けます。そうしてメーターが15ポンドを越えたところでようやくタクシーは止まり、おもむろに運転手が口を開きました。「ここならザマレクまで歩きやすいから」 サラッと言ってのける彼のなんと格好良かったことか。彼は嫌な顔ひとつせず12ポンドを受け取り、あっという間に走り去ってしまいました。エジプト人というのは強い者 (権力者や金持ち) には反発しますが、弱者には優しいなぁとしみじみ感じました。
後でよく考えたら、ホテルまで行ってもらってそこで全額払えばよかったんですけどね。お互いに気がつきませんでした。行き先をザマレク (地区名) ではなくホテル名で言っていたらまた違っていたかも。
カイロでは、外国人の中でも日本人は特にたくさんお金を払うとみんな信じているようで、タクシーに乗るとまず「日本人か?」と聞かれます。ここでうっかり「Yes」と答えると (うっかりと言ったって事実そうなんだけど…)、途端に運転手は上機嫌になって「日本は素晴らしい、日本人は友達だ」などと話しかけてきます。道中「あれが○○○で、あっちは○○○だ」などとにわかガイドを始め、そしてタクシーを降りる時、「友達なんだからもっとバクシーシをくれ」としつこく催促されることになります。「中国人と言えば安くなる」と言っていた人もいましたが、そこまでウソをつくのは抵抗があります。効果が高いのは、「イザイヤック (How are you)」から始まって一通りの挨拶とおべんちゃらをアラビア語、しかもカイロ方言で話しかけることです。そうして自分はエジプトに長期間滞在しているのだと強調すると、向こうは「こいつは知っている奴だ」と思って、それほどしつこく金、金と言わなくなります。そのかわり「タクシーでは食えないんだ、仕事を紹介してくれ」などとしつこく言われ、別の意味で鬱陶しい思いをすることになるかも知れませんが。
一度、家まで近いのにタクシーを使ったことがありました。メーターは0.9ポンド (29円)。さすがに1ポンドきっかりだと悪いかなと思って、0.1ポンドコインを足して払いました。タクシー運転手は急に不機嫌になって、「なんだこれは、少なすぎるだろ」と声を荒げてきましたが、それを聞いてこちらもムカッときました。少なくともメーター以上は払っているのに、なんでそんな言われ方をされなければらないのか。メーターを指さし「これはいくらだ、言ってみろ!!」と私もついつい語気を強めてしまいました。私の口から発せられたアラビア語に多少の驚きを見せつつ、向こうも負けじと「1.5ポンド (ギニー・ワンヌッス) よこせ」と声を張ります。「この距離でそんなに払えるか」「みんなもっと払うぞ」「昨日は1ポンドしか払わなかった (←口からでまかせ)」「おまえ日本人じゃないのか」「だからどうした」などと応酬を繰り返していると、「じゃあ1.25ポンド(ギニー・ワッルブゥ) よこせ」と言ってきました。その高飛車のもの言いがますます頭に来て、とてもではありませんがあと0.15ポンド (5円) 追加する気にはなれません。結局20分以上言い合いをして、最後は向こうがあきらめて行ってしまいました。家に上がってからしばらくは鼻息が荒かったのですが、その日の夜、ふと我に返り、「たった5円のことで何をしてるんだか…」とかなり落ち込みました。
カイロのタクシーは料金がとても安く抑えられています。料金メーターはついているものの、初乗りが20円くらいから始まり、走ってもそれほどメーターは上がりません。安いのは良いのですが、逆に安すぎて、メーター通りのお金を満足して受け取る運転手などいません。現地人でも多少は割り増しして払うと聞きました。タクシーの値段は、乗る人の国籍、タクシーを拾う場所、行き先などによってピンキリです。そこで、タクシーの乗り方にはちょっとしたコツがありました。まず、ホテルの前に止まっているタクシーはかなり高いので、少しホテルから離れて流しのタクシーを拾うこと。ホテル前のタクシーは、その権利と引き替えにホテル側にいくらか取られているそうです。自宅の近くにあったフラメンコホテルだと最低6ポンド (190円) から、ラムセスヒルトンだと最低10ポンド (320円) から交渉が始まりました。流しを拾えば2~3ポンドで行ける距離でもです。また、行き先が観光名所だと、観光客と思われてその分高い料金を言われます。通りの名前とか駅の名前を言って、そこで降りて少し歩くようにした方が断然安くすみます。それからガイドブックには「タクシー料金は乗る前に交渉すること」と書かれていることが多いのですが、必ずしもそうではありません。目的地を告げてタクシーに乗り込んだら、後は運転手が何を言おうが到着まで料金については無視し続け、着いたら車を降りて窓の外から相場の額を渡し足早にその場を去る、という上級者向けの技があります。メーター料金にいくらか足して払ったとしても、運転手は必ず「これじゃあ少ないよ」と文句を言うでしょうが、本当に相場以下だったら、運転手はタクシーを降りて追いかけてきます。追いかけてこなかったら、一応満足できる額だったということです。
あれは初めてエジプトに旅行した時だったでしょうか、ホテルから考古学博物館に行くためタクシーに乗りました。こちらは見るからに日本人の旅行者、しかも行き先は観光名所です。運転手は終始ご機嫌で、鼻歌交じりに運転していました。博物館に着くと、メーターは1.5ポンド (50円)。タクシーを降り、窓の外から2ポンド渡すと、運転手の顔がみるみる険しくなっていきました。「冗談だろ!!」と運転手は大声を出しました。それを無視してスタスタと歩き出すと、しばらく罵声が聞こえていましたが、そのうちタクシーは行ってしまったようです。その時は「勝った」と思いましたが、あそこまで罵倒されるとちょっと気分が悪いので、次に同じルートに乗った時に3ポンド渡したら、今度は満面の笑みで「シュクラン (ありがとう)」と言われました。多すぎたのかな…。
ハムシーン (ハムスィーン) は、アラビア語で「50」を意味します。エジプトでは、毎春3月から4月にかけて砂嵐が頻繁に発生し、埃っぽい日が続きます。これが50日間続くため、この砂嵐の時期をハムシーンと言うようになりました。ただでさえ埃っぽいエジプトが、この時期は一層砂に煙ります。家の中はどんなに厳重に窓をしめていても、1時間もすればうっすらと砂がつもりますし、飛行機の欠航も珍しいことではありません。空気清浄機などなんの役にも立たず、マスクをかけていても砂 (土) の匂いが鼻にしみます。しかしもっとも嫌だったのは、砂嵐によって地上のノミ・ダニが上空に巻き上げられることでした。私は高層アパートの15階に済んでいましたが、砂嵐の後は決まって体中あちこちノミに刺されたものです。砂漠から吹いてくる強烈な砂嵐によって、カイロの大気汚染が一時的にでもなくなるのはむしろ歓迎でしたが、かわりにノミを巻き上げるのには辟易しました。エジプトのあらゆる事象は、外国人を苦しめるようにできている、と断言します (←被害妄想)。
言わずと知れた世界最高峰の博物館。何がすごいかって、ミイラが無造作に山のように積んであるところでしょうか。とにかく収蔵品が多すぎて、かつどれも考古学上とても貴重であるため、「とりあえず並べました」的な、あまり見せ方に工夫していない様子がありありです。もっと展示スペースを広げて、それぞれに具体的な説明を付ければ、より一層魅力的な博物館になると思います。それにしても、ツタンカーメンの黄金マスクをはじめ、世界的に有名な収蔵品がキラ星のごとく並んでいます。日本の博物館がいかに空っぽかと痛感します。しかしこんなに貴重な博物館なのに、警備の人間はいたってのんびりしているところがなんともエジプト的です。内部は、写真はOKですがフラッシュは禁止されています。日本人が写真を撮っていると警備の人間がスッと近づいてきて「今フラッシュが光ったぞ、口止めとしてバクシーシ (チップ)」とよく言われました。こちらが像の前で静かに見入っていると「これは○○○の像だ、説明したんだからバクシーシ」と言ったり、とにかく単刀直入に「バクシーシ」と言ってきたりしました。たぶん実際にお金を渡したバカな日本人がいたんでしょう。当時は博物館に行くたび鬱陶しくて仕方ありませんでした。バクシーシ次第で小さい展示物ならもらえるんじゃないかと、本気で考えたりもしました。
カイロ考古学博物館には、世界的なスターもやって来ます。一度、館内でティナ・ターナーを見た時は感動しました。あの顔、あの服、あの髪型。脇には黒服・サングラスのボディーガードが2名。そして誰が見てもティナ・ターナーだとわかる容姿。たぶん最初から隠れる気などまったくなかったようです。堂々とした振る舞いはさすがの貫禄でした。

初めてのエジプト旅行は、それはもうワクワクしながら行ったものです。ホテルも含めて何も計画せずに行ったので少し不安もありましたが、不安よりも期待の方が上回っていました。カイロ空港に降り立ち、入国カウンターはどの方向だと通路でキョロキョロしていた時のことです。1人の女性がこちらに近づいてきました。首から何かIDカードを下げており、身なりはきちんとしたスーツ。彼女は私の目の前に来ていきなり「パスポートを見せろ」と言いました。すっかり空港のスタッフだと思って、あわててパスポートを見せると、今度は「ホテルはどこだ、ツアーは予約しているのか」と鋭い質問が飛んできます。私は一瞬ドキッとしながら、「何も予約していない」と答えました。「では、こちらへ」と言うと、彼女は私のパスポートを持ったまま歩き出しました。こちらはもうついて行くしかありません。「ホテルは嘘でも予約してあると言った方が良かったか」と後悔しました。私はてっきり彼女が警察官で、ホテル予約もなしに来た旅行者に何かペナルティーが科されるのだとばかり思っていました。しかし、私の予想はまったくはずれました。彼女は小さな部屋に私を招き入れると、それまでの冷たい表情をすっかり変え、急にニッコリ微笑んできました。そして、やおらエジプトツアーのカタログをドンと机の上に広げたのです。私は「あ、そういうことか」と一瞬で理解し、さらに自分の気の弱さからして、もう断るのは無理とあっさり判断を下しました。
結局その事務所で、カイロ市内ツアー (考古学博物館、ムハンマドアリーモスク、ハンハリーリスーク、ベリーダンス付きナイル川ディナークルーズ、コプト博物館、他)、ギザとサッカラのピラミッド見学、ルクソール夜行列車の旅、アレキサンドリアバスツアーとメチャメチャ盛りだくさんのツアー予約をすることになりました。もちろん全行程のホテルとその日カイロ市内に行くタクシーの予約も済ませました。値段については比較のしようがありませんが、それほど高いとは思いませんでしたし、何より自分1人でやったらとてもこんなアクティブには動けませんから、やはりそこですべて頼んで良かった思っています。空港の入国手続き前にこんな客引き (政府観光局だけど) がいるのは他の国では信じられませんが。初めてのエジプト旅行は、やはり見るもの全てが新鮮で、毎日が驚きの連続でした。一番印象に残っているのは、カイロからルクソールに行った夜行列車です。グッスリ眠って朝目を覚ますと、窓の外には延々と続く田園風景。朝靄が立ちこめ、朝日を受けて黄金色に輝いていく様は、今でも忘れられない光景のひとつです。列車のコンパートメントで食べた朝食はいたって普通のものでしたが (クロワッサン、コーヒー、フルーツ)、殊の外おいしく感じました。振動も予想以上に少なくとても快適で、カイロで乗ったタクシーやバスとは大違いでした。カイロで見たピラミッドもかなり感動しましたが、ルクソールはその感動を大きく上回るものでした。その話はまた別途。

カイロ近郊で、ギザのピラミッドに次いで有名なのがサッカラの「階段ピラミッド」です。これはエジプト第3王朝ジェセル王のピラミッドで、紀元前2700年ごろ建造されました。その設計は、最古の建築家でのちにエジプトで神格化されたイムヘテプによるものです。このピラミッドは最古の記念碑ともいうべき王墓であり、エジプトでもとくに古い石造建築のひとつです。ピラミッド周辺にはマスタバ (アラビア語で “ベンチ”) と呼ばれる墳墓群があり、内部はヒエログリフによる膨大なテキストの彫刻とともに、漁や牧畜の様子など当時の生活を記録したレリーフで埋め尽くされています。カイロとその近郊では、サッカラのレリーフが一番美しいと思いました。
ダハシュールには第4王朝初代国王スネフルのピラミッドがあります。「屈折ピラミッド」として知られていますが、その名の通り底辺から傾斜角約54度で積まれていた石は、途中から約42度と急に緩やかになっています。なぜ屈折なのか、それは石組みの技術力の問題だったそうです (他にも諸説あり)。砂を上からサラサラと落とすと、砂の山ができます。その傾斜角が、自然にできる限界の角度です。それ以上傾斜角を大きく、つまりとがらせようとすると、積み上げ方に工夫が必要になります。ギザのクフ王のピラミッドは、傾斜が自然の角度よりもだいぶとがっています。それだけ石組みに高い技術力があったということです。ところが屈折ピラミッドは、ある高さで傾斜角が緩くなっています。石をできるだけ鋭角で積んでいくはずが、途中で挫折してしまったんですね。上の方の緩やかな傾斜は、自然にできる角度とほとんど同じだそうです。
ピラミッド造成技術は、クフ王のピラミッドがひとつの頂点です。これは紀元前2530年頃のことで、今から4500年も前のことです。クフ王以降は、紀元前1600年頃までピラミッドが造られたそうですが、後期になるほど規模や技術力は低くなっていきました。4500年前に技術のひとつのピークがあったという事実には驚愕するばかりです。



エジプトが嫌い嫌いと言いながら、なんだかんだで旅行5回、挙げ句の果てに3年間カイロで生活してしまいました。エジプト人 (カイロ人) については、口を開けば不満と文句しか出てきませんが、古代エジプト王朝の遺跡については、やはり一生に一度は見る価値のある、素晴らしいものだと認めざるを得ません。カイロから車で30分ほど走るとギザに着きますが、車窓から見えるピラミッドは徐々にその大きさを増していき、メナハウス・オベロイホテルの手前に来た時には、異様な大きさとなって目の前に広がります。初めて見た時は、その常軌を逸した大きに思わずアハハハと笑ってしまいました。人間、わけがわからなくなるとなんだか笑ってしまうものなんですね。ちなみに、周囲の構造物との対比とか、最初にドーンと目に飛び込んでくるからとか、いろいろな理由があると思いますが、メナハウスの手前から見るピラミッドが、感覚的に一番大きく見えました。もっとピラミッドに近づくと、見上げる目線とピラミッドの傾斜角が一致してくるためかあまり大きな面積として映らないので、逆にその大きさがよくわかりません。しかし遠目にはレンガブロックを積み重ねたように見えたピラミッドの1個1個の石が、実は1mくらいあって、そこから如何に大きな建造物かということがわかります。
ピラミッドは王の墓であると言われていますが、底辺の四隅がぴったり東西南北に合わされていることから、他にも何か目的があったのではないかと言われています。大通廊に「大予言」が記されているという人もいます (ムーだけど…)。少なくとも内部にはいろいろな部屋が作られ、そこにさまざまな財宝 (副葬品) が隠されていたようです。入口は完璧にふさがれましたが、多くのピラミッドには盗掘の穴が開けられました。現在ではその穴を利用して、ギザのクフ王のピラミッド内部にも入ることができます。盗掘のために作られた狭い通路をくぐり抜け、大通廊に出ると一気に天井が高くなります。大通廊は傾斜がきつく、内部は酸欠気味なので上っていく時はかなりの息苦しさを感じました。大通廊を上りきると、王の玄室があります。ガランとした殺風景な空間で、ポツンと石棺が横たえられています。私が行った時は、石棺の周りで10人くらいの白人の集団が手をつないで輪になって「ム~、ム~」とハミングしていました。何事かと思ってその場に近づき石棺の中をのぞいてみると、中に1人横たわって「うーん、うーん」ともぞもぞ動いていました。ピラミッドパワーが欲しかったのでしょうか。私の中では「謎のムームー集団」としてずっと記憶に残っています。



サウジアラビアでは、計画というものは有って無きがごとしでした。これは、計画という考え方がイスラムの教義に合致しないからです。コーラン第18章23~24節には、「何事においても “私は明日それをするのです” などと言ってはならない、”アッラーが御好みになるのなら” と付け加えずには」と記されています。そのため、イスラム教徒は何か将来のことを約束したときには必ず最後に「インシャーアッラー」と付け加えるのですが、これでははなから計画遂行や期限の厳守など望むべくもありません。サウジアラビアでの仕事は、とにかく物事が計画通りに進まず苦労しました。計画が予定通り進まないのは、同じイスラム教国であるエジプトも同じなのですが、エジプト側と一緒に仕事を進めていく上で一番の障害となったのは、エジプト側が負担すべき約束が履行されないことでした。それは人の配置であったり予算の確保だったりしますが、もともと予算が少ないことに加え、なにしろ彼らは「じっと待っていればそのうち事態が好転する」という信念の持ち主です。「待っていればそのうち日本側が全部やってくれる」という考え方になるのは、当然の帰結でしょう。日本人はなんとしても計画の期限を守ろうとするし、また予算も単一年度で使い切らなくてはなりません。我慢くらべをするにしてもこちらの時間は限られているわけで、その辺りのせめぎ合いが本当にストレスでした。
また、エジプトはイスラエルと単独和平に踏み切るなど、欧米諸国にとっては中東の模範生です。さらに、スエズ運河があるためヨーロッパ諸国にとっては生命線とも言える地政学上の重要国家であり、その結果、莫大な援助資金や技術協力が集まって、さながら援助の博覧会でした。黙っていてもエジプトに援助したい国はたくさんありますから、日本がエジプト側に対して最後通告的に「約束を守ってくれないと援助をやめるぞ」と言っても、あまり効果はありません。相手の自立を促すためには、相応の責任分担をしてもらう方が、オーナーシップの醸成という観点からも望ましいというのは良く理解できますが、それがエジプト人相手だと、途端に空論に思えてしまったのも事実です。真に自立の必要性を考えていたエジプト人が当時どれほどいたことか。こうした諸条件の元に「何もせずに待つ」という性格に拍車がかかってしまうことは、長い目で見れば決して得策ではないと思いますが、私の思う「長い目」がせいぜい50年なのに対し、彼らのそれはきっと千年単位でしょうから、最初から勝負になりませんね。
エジプト人とひと口に言っても、ナイル上流のヌビア地方から地中海に面したアレキサンドリア、またシナイ半島の遊牧民まで、単純にひと括りにはできない多様性を持っています。そこで「エジプトはナイルの賜 (ミスル・ヘバトゥンニール)」という格言に基づき、ナイル川沿いに暮らしてきた人たちを大きな意味でエジプト人と括ることにして、彼らの性格を分析してみたいと思います。ナイル川は、アスワンハイダムが造られるまで、毎年洪水を起こしていました。洪水のたびに河岸の集落はダメージを受けますが、それが下流に肥沃な土をもたらし、農民はまた1年間畑作ができるようになります。これを数千年に渡って繰り返してきた人々は、「ナイル川の洪水は、時期は前後するけれど必ず起こる」という「事実」を学びました。これはつまり「事態はいつか必ず好転する」ということであり、その信念に基づき「何もせず、楽観的に事態の推移を待つ」性格が形成されていきました。
エジプトの歴史は、支配と抑圧の歴史でもあります。王朝時代はひと握りの王族による大多数の民衆の支配、続いてローマ帝国、ビザンチン、イスラム、オスマントルコ、イギリスと、常にエジプト民衆は他者からの支配を受け続けました。これほどまで長い間、反乱も起きずに (実際には幾度かあったかもしれません) 他者による支配が続いたのは、こうしたエジプト人の「抑圧に耐え抜けばいつか事態は好転する」というポジティブシンキングが影響しているのではないでしょうか。その結果、数千年の時を耐え、20世紀になってついに真の独立を勝ち得たわけですから、本当に大したものです。日本人とは時間の流れ方が明らかに違うと言わざるを得ません。

まぁ、庶民といってもピンキリですが、公務員ならだいたいその国の中流を表していると思います。写真は職場の近くの住宅街で、スタッフ (役所の公務員) が住んでいるところのものです。ナイル川からはいくつもの用水路が引かれ、人々の生活にはなくてはならないものとなっていますが、水量低下と人口過密によって、近年は用水路のドブ川化が急速に進んでいます。水道が普及した今では、なにもこんなところで食器を洗ったり洗濯をする必要はないのですが、昔ながらの井戸端会議の習慣はやめられないそうです。この食器で食事を出される人の身にもなってほしいですけど…。家については、やはり屋根はなく鉄筋が伸びています。それとここにもヒツジがいました。家の外では平気でゴミを散らかすエジプト人ですが、家の中はそれはもうきちんと整理整頓されています。カーテンや小物にも凝っていて、外が汚いだけに、せめて家の中は自分だけの世界としてくつろげるようにしたい、という想いが伝わってきます。やれば出来るんだから、みんなで協力して町の美化運動でもすれば良いのに。



エジプトは国土の大半が住環境には適さない砂漠地帯です。人々はナイル川沿いとナイルデルタ、面積にしたら国土のわずか4%の土地にひしめき合って住んでいます。なのに人口は増え続けるので、とにかく土地がたりません。特にカイロは人口が集中しているため、1戸建てなど夢のまた夢、みんな高層住宅に住んでいました。外国人が入居するようなところは20階建ては当たり前、地元民が住むような所はレンガ造りで細~い鉄筋しか使ってませんから5階からせいぜい10階建てです。しかもカイロには「屋根税」という変な税金がありました。建物の屋根が完成すると税金を払わなくてはならないというもので、政府はこれによって、上に上にと住宅を建て増しするよう圧力をかけているわけです。苦肉の策であることはわかりますが、その結果として、異様に汚い町の景観を生み出すことになろうとは、政府も予想できなかったでしょう。
写真は、エジプト人に見せても「これスラム?、カイロじゃないでしょ?」と驚くほど汚い町並みですが、カイロ中心部の有名なモスクのミナレットから見下ろした風景です。「まだ屋根は作っていないよ」という意思表示のため、柱から鉄筋をニョキッと伸ばし、レンガは積みかけ、コンクリートや砂利など建築資材を散乱させています。そこに砂が降り積もり、もう地面なんだか屋上なんだかわけがわからなくなっています。これだけ滅茶苦茶なせいか、屋上でニワトリやヒツジを飼う人もたくさんいました。屋上フンだらけです。大気汚染に水質汚染、交通渋滞に騒音公害、人口過密でいたる所ゴミだらけ、町の景観は醜悪。これではまともな神経の人は生活できません。見えるもの、聞こえるものすべてに対して、鈍感にならなくては神経がもちません。エジプト人 (カイロ人) の無神経さは、こういう環境によって生み出されたものでしょう。彼らも被害者なんだと思いました (加害者は自分ですけど…)。

カイロの公害といえば大気汚染に水質汚染ですが、町中にゴミが散らかっているのも相当な問題だと思います。「埃」と書いてエジプトを表すのは言い得て妙ですが、確かにエジプトは埃っぽい町です。それに加え、あちこちゴミが多い。道路は作業員によって頻繁に清掃されていますが、すぐに土埃がたまるし、ナイロン袋や紙クズがどこからともなく飛んできます。あちこちに大型のゴミ箱が置いてあり、回収車もよく見かけるのですが、作業が追いつかないのか、大型のゴミ箱にゴミが山盛りになっているのも当たり前の光景です。ゴミ箱に入りきらないゴミが周囲にあふれ出すと、人間とは不思議なもので、ある時点で急に気にならなくなるようです。それまでは曲がりなりにもゴミ箱付近にゴミを捨てようという姿勢が見られたのが、一転、塀の前、街路樹の根元、中央分離帯、ちょっとした空き地などなど、平気でゴミを捨てるようになります。ゴミがゴミをよび、あちこちにゴミの山が築かれると、今度はゴミを目当てに人やヒツジがよって来るようになります。家庭ゴミは、まず人がペットボトルや空き缶を拾い上げます。次にヒツジ飼いがヒツジを連れて来て、生ゴミを食べさせます。最後は、自然発火なのか誰かが意図的にやるのか、火がついてあらかた燃えて終わりです。まぁ、ゴミ処理の究極の姿とでも言うんでしょうか。煙にはダイオキシンとかも含まれていると思うんですけどね。こんな所で育つ子供は悲惨だなぁ。写真は特別な場所でも何でもない、カイロの普通の光景です。



ルクソール事件の犯人を推理すれば、それはムバラク政権への打撃をねらったグループの犯行だと言えます。昔から、エジプトの反体制グループ (イスラム原理主義者) は、「国民の生活不安→現体制への不満爆発→政権交代」という回りくどい方法を目指してきました。実際、ルクソール事件直後からエジプトへの観光客は10分の1に激減、貴重な観光収入はほとんど途絶えてしまいました。観光地では多くの人が店をたたみ、カイロでもタクシーの数が激減、ホテルは客が入らず、レストランも閉店が相次ぎました。しかしそれで政治が変わったかと言えば、当たり前ですが何も変わっていません。単に人々の生活が苦しくなっただけです。テロリストグループは、外国人を傷つけ、さらにエジプト人をも傷つけたのです。政権交代を目指すなら、もっと別の道があるだろうことは自明の理です。しかし、テロの翌日から観光キャンペーンを始めた政府側も、相当無神経なところがあります。テレビをつければルクソールの映像が流れていて、曰く、「今がもっとも安全」。どこかにまともなエジプト人はいないんだろうか…。こんなバカな対応をしているから、それから2年間ほとんど観光客が来なかったんだと思います。
仕方なく、観光地ではエジプト人優遇キャンペーンを始めました。遺跡の入場料やホテル代をぐんと安く設定したのです。それまでは、観光地のホテルには一定の宿泊料金しかありませんでした。外国人もエジプト人も同じ宿泊料金です。公務員の給与が2万円もないのに、1泊100ドルのホテルにエジプト人が泊まれるわけありません。例えば外国人1泊100ドルのところ、エジプト人は100ポンド (3200円) くらいにしていたと思います。一応ホテルの部屋は埋まるようになりましたが、それから何が起こったか。ある時期現地紙に「観光地を破壊するエジプト人」という告発記事が連載されました。観光地のホテルや遺跡で、あまりにもエジプト人観光客のマナーが悪く、物を壊したり汚したり、手がつけられない状態になっているというものでした。インタビューに対して「あのテロのおかげで私も高級ホテルに泊まることができた、あれは良かったと思う」と答える人も何人かいました。実際、これがエジプト人の本音なんだと思うと、本当に悲しくなりました。
エジプトに赴任して5ヶ月ほどたったとき、ルクソール近郊のハトシェプスト女王葬祭殿でテロ事件が起こりました。数十名の旅行者が犠牲になるなど、かつてない凶悪な事件は、当然カイロの日本人にもすぐに連絡が入りました。その日はインターネットで関連ニュースを読みあさり、全容を知れば知るほど、わき上がる怒りは大きなものになっていきました。翌日、やるせない気持ちで出勤すると、ほどなくエジプト人スタッフから、話したいことがあるから集まってくれと言われました。そこで、私たちは自分の耳を疑うことになります。おもむろに口を開いたマネージャーからは、昨日のテロ事件のことが話されました。「あれはイスラム教徒がやったことではない、すべてアメリカとイスラエルの陰謀である」 淡々と語るマネージャーの顔を見ながら、私たちはあきれて反論する気にもなれず、ただ押し黙るしかありませんでした。「なぜなら、イスラム教徒はあんな残酷なことはしないから」 続けて発せられた言葉に、私たちはもう力無く笑うしかありませんでした。「そういう考え方もあるんだね」と言い残し、私たちは席を立ちました。それからしばらくの間、周りのエジプト人から何度も何度も同じようなことを言われました。最初は、イスラム擁護の立場から弁解として発言しているのかとも思いましたが、どうもほとんどのエジプト人は本気でこう考えていたようです。当時、エジプトに住んでいた外国人は、皆同じことを言われたはずです。それによってどれだけ我々がエジプト人のインテリジェンスの無さを嘆いたか、彼らは知らないでしょう。

私は日本の運転免許からエジプトの免許に書き換えたのですが、その時、申請書を持って交通警察に行きました。そこは教習所も兼ねており、狭~い敷地に簡単な実技試験の場所がありました。何しろカイロは土地がありませんから、どの役所も広い庭など望むべくもありません。そこもせいぜい25mプールくらいの広さで、乗用車と中型トラックが止めてありました。申請書が受理され、次に必要な書類を待っていると、実技試験が始まったようで、トラックに人が乗り込みました。エンジンがかけられ、まずゆっくりと走り出します。しだいに方向を左に変えていき、最後はまたハンドルを右に切って車体をまっすぐにして、対角線側に止まりました。今度はバックです。バックしながら右に寄ってきて、最初の位置にピタリと止まりました。急にドアが開き、運転者がガッツポーズをしています。「なんだこれ?」と思いましたが、周りから拍手があがっていたので、たぶんこれが実技試験なんでしょう。乗用車の実技試験にいたっては、まっすぐ前身とバックのみ。それでも1人の女性は失敗していましたが…。カイロの交通渋滞の原因は、車が多い、道路設計が悪い、障害物 (人、馬車、故障車) が多いことに加え、ドライバーの運転技術が低いことも大きく関係していると思います。
ある時、仕事帰りに2車線道路を大型バスとほぼ並行して走っていました。いつも通っているほぼ直角のカーブにさしかかった時、バスの方がわずかに前を走っていて、こちらがちょうど死角になっているようなポジションだったので嫌な予感はあったのですが、2台で同時にカーブした途端、バスが内側にググッと迫ってきて、私の車は中央分離帯と大型バスに挟まれてしまいました。幸いスピードはゆっくりで、お互いにすぐ止まったため大事には至りませんでしたが、バスにこすられた右側のドアが少しへこんでいます。私の運転手はすぐに車を降り、バスの運転手に向かって「何やってんだーっ!!」と怒鳴り散らしていましたが、私にしてみればこんなのはうちの運転手のミスです。こちらは死角を走っていたし、内輪差を考えれば当然の結果ですから。もしバスの運転手に文句を言われて、日本人が顔を見せたら法外な修理代を要求されると思って私は車内で成り行きを見守っていました。
バスの乗客も次々降りてきて、ああでもないこうでもないと話は全然おさまりません。2、3分して、後ろで何百メートルも渋滞している車から大量のクラクションが鳴り始めたとき、ちょっと来てくれと私が呼ばれました。結論として、「これは全面的にバスが悪い、しかし運転手は修理代を払うことができない、あなたは日本人だ、彼を許してやってくれ」ということでした。バスの乗客たちからも「ブリーズ!!」とお願いされ (P音がないのでPlease→Blease)、もともと事故を誘発したという意味ではこちらの方が悪かったんじゃないかと考えていたくらいなので、「わかった、大丈夫」とひと言残し、その場を去りました。帰りの車中で運転手に「あなたも今後は気をつけてくれ」と軽く言ったら、「あれは完全にバスが悪かったんだ」とメチャメチャ反論されてしまいました。何か正しくて何が間違っているのか、いまいちエジプトの交通ルールがわかりません。一方通行を逆走するのも「できる男」みたいな感じだし。
カイロの交通渋滞はほとんど名物のように語られます。カイロは近代的な都市計画もないままどんどん人口が増え続け、地方から出てきた未登録住民を含めれば1,200万人もの人口を擁すると言われていました。その割には交通機関が貧弱で、地下鉄もありますが渋滞緩和にはほとんど役立っていません。バスはそれなりに走っていますが、数が全然足りないので、乗ることそのものが大変で、大型バス、ミニバスともに外のステップや屋根の上にお客が鈴なりになっているのも珍しくない光景でした。結果、多くの人が自家用車を利用するわけですが、道路の設計が悪く、また近年になって設置された信号機もほとんど機能していません。交差点では警察官が交通整理をしているのですが、見るからに賢くなさそうだし実際やり方も悪くて、ドライバーの方も最初から警察官をバカにしきっていておいそれと指示には従いません。運転する方も車線を守るとかお互いに譲り合うだとか、はなから考えていませんし、そこに故障車 (毎日必ず数台見た)、歩行者、馬車、ロバがひしめき合い、慢性的な渋滞を生んでいました。自宅近くの2車線道路でも、バスになかなか乗れない客がジワジワと道路にはみ出し、いつも1車線が使えなくなっていました。1車線が人であふれ、1車線にバスが止まったら、後ろの車は止まらざるを得ません。そりゃ渋滞もするっつーの。
私は赴任時に空港から市内に向かう途中で、早々と「こりゃ自分では運転できない」と悟り、他の人と同じように運転手を雇いました。途上国では、普段温厚な人が車に乗るとなぜああも鼻息が荒くなってしまうのでしょう。「どけどけー!!」と言わんばかりにガンガン突っ込みます。隣の車に割り込ませてあげたらとか、歩行者を渡らせてあげたらとかしょっちゅう思いましたが、確かにそういう消極的な走りをしていると周りからの容赦ない波状攻撃にあって、まともに走れなくなってしまうのも事実です。ボディーをこするとか人に軽く当たるとか、そういうのはもう仕方ないことと割り切って、ある程度ワガママに走ることも大切です。



「エジプト赴任前はサウジアラビアにいた」と言うと、エジプト人は十中八九「あいつらひでぇ奴らだろ」と言ってきました。「友達が出稼ぎに行ったんだけど全然給料をもらえなくて」という話もだいたいセットで付いてきました。それが本当なのかどうかわかりませんが、多くのエジプト人は湾岸諸国、特にサウジアラビアが嫌いで、「金持ちでバカで非常識な奴ら」と考えています。それに対してサウジ人はエジプト人のことを単に「労働力」としか見ていない部分があり、少なくともそこに感謝とか尊敬の念はありません。確かにエジプトは相当貧乏な国です。エジプト (人口7000万) よりもクウェート (人口200万) の方が購買力が高いと、商社の人が嘆いていたくらいです。エジプト人の言うことは、貧乏人が金持ちをやっかんでいるようにも見えますが、実際、エジプト人の労働力がなければサウジアラビアもいろいろと困るわけで、その辺は金持ちのサウジが一歩譲って、もう少しエジプト人に対して感謝の気持ちを表してあげれば良いのにと思います。もしエジプト人が出稼ぎをやめて国内で働いたら、国力としてはすごいことになると思うのですが、出稼ぎ労働者からの送金はスエズ運河の収入に次いで大きな外貨獲得手段ですから、まぁ、実現は難しいでしょうね。湾岸戦争で大量のクウェート人やサウジ人がカイロに避難していたときは、ここぞとばかりにエジプト人が嫌がらせをしたとか…。
世界的にも器用な方に分類される日本人の目で見るのはちょっと可愛そうですが、それでもなお、エジプト人は不器用だと断言できます。不器用に加え、雑。とにかくすべてが雑。腕力があって、寸止めができない (極真空手をやったらけっこう良いとこまでいくと思います)。運んできたお茶をドンとテーブルに叩きつけるように置く店員。四角い部屋を丸く掃くメイド。フタの形が変わるほどきつく閉められたケチャップのビン。一度、職場のスタッフに、失敗したコピー用紙を4分の1に切ってメモ用紙にしてくれと頼みました。紙を押し切るカッターにはA4の2分の1と4分の1のサイズが点線で記されていて、「ここに紙を合わせてこうやって切ってね」と実演までしたのに、出来上がったものは、サイズが全然そろっていませんでした。日頃のエジプト人の雑さを考えると、どうも彼らの寸法に対する最小単位は1cmくらいだということが推察されます。このメモ用紙も2cm以上の誤差があったり直角になっていなかったりで、見るからにバラバラでした。でも彼にとってこれくらいは「誤差の範囲内」です。「サイズがそろっていない」と私が苦情を言うと、「どこが? ノープロブレムですよ」と言い切られてしまいました。ある人は、ノートパソコンをエジプト人に貸したのですが、1週間後に返ってきたらキーボードが真っ黒になっていたそうです。何をしたのかたずねると、指が太いのでノートパソコンの小型キーボードが指で打てず、ボールペンで打っていたのだそうです (なぜかフタを取って)。「エジプト人は指が全部親指」と思うのは私だけではないはず。
エジプトの歴史は王国時代 (紀元前3200年~前343年)、ヘレニズム時代 (前332年~前30年)、ローマとビザンチン帝国支配の時代 (前30年~後638年)、イスラム王朝時代 (642年~1517年)、オスマントルコ支配の時代 (1517年~1882年)、イギリスの植民地時代 (1882年~1952年)、そして現在の独立国家エジプトの時代になります。王国時代に建設されたピラミッドやツタンカーメンのマスク、クレオパトラの自殺によって王国時代が終焉したことなど、世界史の教科書にも載っていて、日本人にもなじみ深い話題です。エジプトに赴任してすぐ、職場のスタッフが「エジプトの歴史についてレクチャーしてあげよう」と言って、私たちを一室に集めました。ピラミッドやツタンカーメンなど想像するだけでわくわくしてきます。どんな特別な話がきけるのだろうと期待して耳を傾けていましたが、意外にもスタッフの第一声は「エジプトの歴史は1952年のエジプト革命に始まる」というものでした。私たちは一同黙りこくってしまいました。それに続いてナセルの功績、中東戦争での勝利、イスラエルとの電撃的和平合意などが矢継ぎ早に語られ、アラブ諸国の中でエジプトがいかに重要な立場にいるかを説明されました。
一通り話が終わった後に、恐る恐る「あのぉ、エジプトの歴史と言えばピラミッドですが?」とたずねると、「それは遠い過去の話、誇りには思うが現在のエジプトとは関係ない」と一刀両断されてしまいました。赴任する前、出張や旅行でエジプトには5回行きましたが、その度に「なんだかクセのある人たちだなぁ」と違和感を覚えていましたが、これでますます違和感が増幅されました。確かにナセルはバンドン会議 (アジア・アフリカ会議/1955年) 当時は非同盟諸国の旗手であり、スエズ国有化宣言で勃発した第2次中東戦争 (1956年) を乗り切った後、アラブ諸国の英雄になったことは事実です。サダトもイスラエルとの和平を実現し (1979年調印)、ノーベル平和賞を受賞しました。しかしそれ以降は、アラブ連盟からの追放に加え、湾岸諸国への出稼ぎによる国内労働力の空洞化 (いわゆる頭脳流出)、経済自由化政策による貧富の差の拡大、イスラム過激派の台頭など国内問題が山積し、国力は衰退の一途をたどっているとしか思えません。せっかく5000年以上の歴史があるのに、戦後わずか30年くらいの栄光 (それもすでに過去のもの) に固執する姿は、ちょっと悲しいものがあります。
エジプト赴任が決まり、出発を2週間後に控えたある日、本社で「参考までに」と見せてもらった資料に冷や水を浴びせられました。世銀やWHOが調査したエジプトの公害の報告書です。カイロ近郊の湖は、淡水魚が豊富でカイロにたくさん出荷されていることで有名です。しかしその水質は、いろいろな重金属が世界基準の10倍も含まれていて、実際に奇形魚も多発しているとのこと。「まさかナイル川も…?」と心配になりましたが、大気汚染はさらに深刻でした。世界基準など軽くオーバーしています。水はなんとかなるけれど、空気を吸わないわけにはいかないし…。報告書を見せてくれた人に「これ発表されてるの?」とたずねると、「そんなの発表したら暴動になるでしょ」とのこと。あーあ。ただでさえエジプト赴任は気が重かったのに、さらに出鼻をくじかれました。それから慌てて高性能な空気清浄機を購入したことは言うまでもありません。2週間後、暗鬱な気持ちでカイロ空港に降り立ちました。
カイロでは、昔から外国人がよく住んでいるナイル川の中州「ザマレク」に家を借りました。立地条件は抜群でしたが、築20年以上の古い建物で、ドアや窓枠は隙間だらけでした。カイロの空気は見るからに排気ガスで煙っています。家の中くらいきれいな空気を吸いたかったので、家に入ってまずやったのは、シリコンを買ってきて隙間を充填することでした。ひと通り隙間という隙間を埋めたつもりでしたが、窓を閉め切っていても、1日たてばうっすらと砂がつもってしまいます。しかし砂以上に私を苦しめたのは、なんだかよくわからない「黒いネバネバ物質」でした。掃除は毎日やっていましたが、テーブルを雑巾で拭くと砂と一緒に黒いものが付着します。おそらく排気ガスのNOxなんだと思いますが、手で確かめてみると粘つく感じがあり、「毎日これを肺に吸い込んでいるのか」と思うと本当にやるせなくなりました。後で聞いたら、カイロには200万台の車が走っていて、そのうち20% (40万台) がタクシーだけれど、これが社会主義時代に東欧から輸入されたものでもうほとんどがボロボロ、大気汚染の元凶になっているとのことでした。
汚染された淡水湖の漁業とかボロボロのタクシーとか、政府が規制すれば良いのにと思うのですが、こういう低所得者層はイスラム原理主義者の支持基盤なので、政府としても対応に苦慮しているようです。以前、淡水湖で多発している奇形魚のことをある国会議員が告発しようとしたら、何者かに殺されてしまったそうです。やっぱり原理主義者が?。カイロに出回っている淡水魚がだめなら、アレキサンドリアの海の魚は大丈夫だろうと思うかも知れませんが、やはりかなりの汚染があるとのことで、「毎日食べ続けるのは自殺行為」と言う医者もいました。カイロでも買うことができるカラスミは、魚の卵だけあって重金属がたまりやすいものです。「子供がほしいのなら食べない方が良い」と言われていましたが、これはけっこう食べたかな、おいしかったし。ルクソールのテロで外国人観光客が来なくなり、カイロのほとんどのタクシーが廃業や営業時間短縮に追い込まれた結果、劇的に空気がきれいになったのには驚かされました。
中東、特にエジプトでは、大人の飲み物と言えばコーヒー、紅茶 (ミントティーも)、そしてカルカデです。カルカデはハイビスカスの花を乾燥させたもので、煮出すと濃い赤紫色のお茶になります。エジプトはカルカデの一大産地ですが、アスワンなど南部の暑い地方のものが最上級と言われています。最上級といっても1キロ200~300円ですが、やはり高いものはこくがちがいます。まろやかな酸味を多めの砂糖でおさえると、極上の逸品ができあがります。加えて、ガラスのコップに注がれた美しい赤紫の液体を見ると、得も言われぬ感慨がこみ上げてきます。こんなに美しい飲み物を、私は他に知りません (これはちょっと言い過ぎか…)。利尿作用にすぐれているし、あの色はポリフェノールだと聞いたこともあります。おいしくて健康によいカルカデがなぜ世界的にもっと流行らないのか不思議です。ちなみに、日本でもティーバッグのハイビスカスティーを時々見かけますが、あれは似て非なるものです。あれはまずい、本当に。やはりカルカデは豪快に鍋で煮出すのが一番おいしいと思います。日本で買うと中東の10倍くらいの値段になってしまいますが。
エジプトにうまいものなし、という格言があるとかないとか…。しかしひとつだけ、心の底からおいしいと思うものがあります。それは、カイロのゲジラシェラトンにあるレストラン「カバブギー」。ここの焼きたてパンとハトのグリルは、もう絶品中の絶品。一度食べたら忘れられないおいしさです。単に肉を炭火で焼いただけなのに、よくぞここまでおいしくなるものだと、何度食べても顔がほころびます。平和の象徴であるハトを食べるのはどうかという見方もありますが、このおいしさの前では問答無用です。ハトといってもその辺の公園にいるのを捕まえてくるわけではなく、ちゃんと肉用に飼育されたものです。エジプトに行くと、小さな穴がたくさんあいていて、棒がニョキニョキはえている塔を見かけますが、これがハトの飼育小屋です。エジプトでは、ハトはご馳走としていろいろな場面で食べられています。ハトはエジプトを代表する料理と言っても過言ではありません。レストランのテラスからピラミッドを眺めながらハトを頬ばる、これなどまさにエジプト旅行の醍醐味です。
カイロにはそれこそ星の数ほどハトを食べさせるレストランがあります。しかし、そのほとんど、極論すればカバブギー以外は、残念ながらどこもハトのおいしさを引き出せているとは言えません。ガイドブックにのっている有名店でも、基本的に火を通しすぎています。肉の新鮮さに自信がないから焼きすぎてしまうのでしょうか。味付けもしょっぱすぎるか何も塩をしていないか。単純な料理ゆえに、おいしく作るにはずいぶんコツがいるだろうとは思いますが、こうもことごとくまずいと、逆にまずくつくるヒケツがあるように感じます。「おまえら調子に乗って肉ばっか食ってんじゃねえぞ」とばかりに、わざとまずく作って外国人に嫌がらせをしているのかもしれません(←被害妄想)。そうなると余計にカバブギーのハトが光って見えます。というわけで、カイロに行ったらカバブギー、カバブギーをよろしくお願いします。エジプトは古代遺跡以外あまりほめるところがないので、つい力が入ってしまいました。
エジプトに始めて行ったのは1987年のこと。その時は「世界一まずいケンタッキーフライドチキン」を食べました。まぁ、勝手にそう思ったわけですが、古くて臭い油、揚げすぎでパサパサの肉、絶対オリジナルとは違う衣の味、グニュグニュでもう訳が分からないフライドポテトなど、よくぞここまでというほどのひどい代物でした。月日は流れ、そのあとエジプトにはなんだかんだで4回ほど旅行に行きましたが、その度「エジプト=料理がまずい」というイメージが刷り込まれていきました。しかし、エジプトにだけは住めない、という固定観念ができあがった頃、あえなくエジプト赴任が決定。1997年から3年間、カイロで生活することになりました。職場はカイロ中心部から車で30分ほどですが、周りは住宅街で食堂がひとつもありません。結局、運転手に毎日サンドイッチを買ってきてもらうことにしましたが、1つ10円のマメのサンドイッチは安いのだけが取り柄で、1ヶ月ほどですっかり飽きてしまいました。
ある日、「もうサンドイッチは勘弁してくれ、何か別のものを買ってきてくれ、できれば肉を」と運転手に懇願したところ、「コシャリはどうだ?」と言うではありませんか。何だそれはと聞くと、スパゲッティとマカロニとご飯と豆と…、などとむにゃむにゃ言います。とりあえず買ってきてもらい、食べてみてびっくりです。容器の中は確かにスパゲッティとマカロニとご飯と豆の四層構造になっていて、行けども行けども炭水化物。しかし揚げタマネギとトマトソースがおいしくて、とうとう全部食べてしまいました。いつにない満腹感がありましたが、そのあとの胸焼けのひどさったらありませんでした。3年間、職場で200回くらいはコシャリを食べましたが、結局あまりおいしいと思ったことはありません。値段も50円くらいなので文句を言ったらバチがあたりそうですが、実はモハンディシーンに「えっ、コシャリってこんなにおいしいの!?」というくらい素晴らしいコシャリを売る店があって、ある日それ(写真)を食べた時は「今まで食べてきたコシャリはなんだったんだろう」と激しく落ち込みました。それ以来、職場近くで買ってくるコシャリが食べられなくなったことは言うまでもありません。

エジプトの北、地中海に面した港湾都市アレキサンドリアでは、毎日新鮮な魚介類が市場に並びます。ある日、アレキサンドリアの魚市場に行ったときのこと、大きなウミガメがひっくり返されてじたばたしていました。甲羅の大きさが70〜80cmにもなるほどの大きなカメです。まわりにいた人たちに聞いてみると、やはり食用として売られているとのこと。しばらくカメを見ていましたが、ふと気がつくと、お札が入ったコップを手にした人たちがひとりまたひとりと集まってきました。じきに小型ナイフを持ったカメの解体屋があらわれ、先頭の若者からコップを受け取り、お札を自分のポケットにしまうと、やおら「ビスミッラー」と唱え、カメののど元にナイフを突き立てました。頸動脈から吹き出た血はコップをなみなみと満たし、若者の手に返されました。そうやって7、8人がコップに血を受け取ると、みながみな、その場でぐっと一気に飲み干していました。聞けばアレキサンドリアではウミガメの血は循環器系の病気に効くと信じられているそうです。この日一緒に行ったカイロっ子に「あなたも飲んだことあるの?」と聞くと、苦虫をかみつぶしたような顔で首を横に振っていました。
血の儀式(?)が終わったあと、ウミガメの体は本格的に解体されていきました。じっと見ていたのが気になったのか、解体屋は「おいしいぞ、買っていけ」とこちらに話しかけてきました。少し迷ったものの、結局その赤身の肉を2キロほど買って帰りました。カイロに戻ってからインターネットで検索してみると、日本でも南の方ではウミガメを食べることがわかりました。どんな料理にしようか考えた末、無難なところで鍋にすることに決めました。昆布だしのおつゆに魚やエビなど魚介類を加え、火にかけて待つことしばし。正直、ウミガメ鍋はおいしかったです。肉は赤身で良い具合に歯ごたえがあって、噛めば噛むほど味が出る、といった感じでした。でも、食べていいのかなぁ。

アラビア語・各国語 | イスラム文化・芸術 | ウェブログ・ココログ関連 | グルメ・クッキング | コレクション | バイク・クルマ | パソコン・インターネット | 住まい・インテリア | 旅行・地域 アジア | 旅行・地域 アフリカ | 旅行・地域 エジプト | 旅行・地域 エチオピア | 旅行・地域 カタール | 旅行・地域 サウジアラビア | 旅行・地域 ヨルダン | 旅行・地域 ヨーロッパ | 旅行・地域 中東各国 | 旅行・地域 雑感 | 日記・コラム・つぶやき | 映画・アニメ・本・音楽 | 植物・動物