2009年3月15日 (日)

久しぶりのヨルダン②

アンマンで昔住んでいた家を見てきました。周りに家がたくさん建っていて、最初そこだと気がつかず車で通り過ぎてしまいましたが、大きなモスクを目印にあらためて探してみると、懐かしい我が家が変わらぬ姿で建っていました。写真1の通り、このモスクの周りもたくさん家が建ち並ぶようになりました。

写真2は昔の家の前の空き地から見た風景。昔は対岸の丘もさっぱりしていましたが、今ではたくさんマンションができました。確実に人と家の数は増えているようです。一方、ダウンタウンは昔から家が密集していましたが、パッと見た感じは当時とほとんど変わっていません (写真3)。この密度にはあいかわらず圧倒されます。

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2009年3月14日 (土)

久しぶりのヨルダン

この週末、ちょっと用事ができてヨルダンに行ってきました。6年半ぶりのアンマンは、それほど劇的には変わっていませんでしたが、着実に発展しているなぁと感じました。

写真1-4: 水曜の夜、木曜の昼夜、金曜の昼と、結局4食全部アラブ料理でした。「ブルージュナー」 のシャンクリシュチーズサラダは、リヤドの 「バールベック」 より断然おいしかったです。「ファハルッディーン」 のヒツジ生肉盛り合わせ (カット肉、ミンチ肉、生クッベ、生クッベスパイシー、レバー、脂肪) は、どれも甘くてヨルダンならではのごちそうでした (あまり他人には勧めませんが)。

「ジャブリー」 のマンサフもぜひ食べたかった一品。この店はやはりジャミードソースの濃厚さが違います。全部ご飯にかけていただきました。ダウンタウンにある 「カイロレストラン」 は、まだやっているのかなぁと思いつつ行ってみたら、フロアが拡張されてだいぶ繁盛しているようでした。ここでは当然、ヒツジの顔。他の店でもあるのかな?。ヨルダン料理なのか、この店だけの特殊料理なのかはわかりません。

写真5: 空港でレンタカーを借りて、滞在中はずっと自分で運転していました。実はまだヨルダンの運転免許証が有効なので (サウジの免許でもいけるらしい)。ちょうど花の季節だったので、イラク・アミールのブラックアイリスが咲いていた場所に、記憶をたよりに行ってみました。どうも今年はまだこれからのようで、ほとんど葉っぱばかりだったのですが、1株だけ、きれいな花を咲かせているものがありました。ラッキー。

写真6: プリンセス・バスマ通りにかかる陸橋。第4サークルからアブドゥーンに行っているのかな?。道路はいろいろと便利になっているようでした。ただし車が増えた分走りにくかったです。リヤドに比べたら道幅もだいぶ狭いし。

ということで、久しぶりのヨルダンはやっぱり良かったです。アンマンは相変わらず暮らしやすそうな町でした。

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2009年2月21日 (土)

ヨルダンの婦人警官は……大きい?

ヨルダンのアブダッラー国王がサウジアラビアを訪問中です。それにちなんでヨルダンの婦人警官の写真を数枚。あれ、最後のは、なんだか違和感が…。頭が大きすぎる気がするんですけど…。何か入っているのかな?

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2008年12月27日 (土)

死海を守れ (Red to Dead Project)

海抜マイナス400メートルという世界で最も低地にある湖、死海。この50年間の農地・宅地開発によって死海に注ぎ込むヨルダン川など周辺河川の水量が著しく減っており、100年前にくらべて水位は25メートル低下、現在は年間80センチから1メートルもの水位低下に見舞われています。そのため、紅海 (Red Sea) から運河をつくり1日500万トンの水を死海 (Dead Sea) に注入する大プロジェクトが計画されています。計画はイスラエル、ヨルダン、パレスチナの三者で合意されており、各国の企業や調査機関によりすでに関連調査が開始されています。見込みでは、180キロに及ぶ運河の建設費用は50億ドルに上るのだとか。

運河が完成すれば死海の水位低下は阻止され、死海経済圏の保護は約束されます。しかし、環境に対するネガティブな影響が無視されていると訴える学者も後を絶ちません。運河は地震が観測されるシリア~アフリカ地溝帯に位置するアラバ渓谷を通る予定ですが、膨大な海水が地下に染みこみ、真水の帯水層を浸食する可能性が指摘されています。この渓谷にはイスラエル側にもヨルダン側にも集落がありますが、彼らは飲料水や農業用水などをすべて地下水に依存しています。運河の海水の地中への染みこみを100%防ぐことは不可能であり、アラバ渓谷以外にも各地の帯水層に与える影響が懸念されています。

また、これまでアカバ湾が紅海の北の端、どん詰まりだったわけですが (シナイ半島の西側にはスエズ運河がありますが)、ここに運河をつくることにより潮汐や生態系にどのような影響が出るかはまったくの未知数です。さらに、これまで真水しか注がれていなかった死海に大量の海水を入れることは、死海の水の化学組成を変えてしまうことになります。他にも、水位が予想以上に上がってしまうこともあり得ます (蒸発量と注入量の計算ミス)。そうなると、現在死海の波打ち際につくられているホテルや工場はどうなってしまうのでしょう。

これらの問題を懸念する専門家は、むしろイスラエル、シリア、ヨルダン政府が、ヨルダン川とヤルムーク川の死海への流入量確保について平和的に合意すべきであると主張しています。水位の復活まで数百年を要するでしょうが、これが最も環境に影響を与えない唯一の方法です。

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2008年10月18日 (土)

ラーニア王妃 (ヨルダン)

ヨルダンのアブドゥッラー国王の妃であるラーニア王妃は、1970年8月31日、クウェートでパレスチナ人医師の家に生まれました。エジプトのカイロ・アメリカン大学で経済学を学び、湾岸戦争後にヨルダンに移住しました。アンマンのシティバンクでキャリアウーマンとして働いている時、知人のパーティーで出会ったアブドゥッラー皇太子に見初められ、わずか6ヶ月で結婚したそうです。

ラーニア王妃の特徴は、なんといってもその女優ばりの美貌でしょう。なんでも着こなすセンスの良いファッション、知性を感じさせる凜とした表情には、なるべくして王妃になったというカリスマ性すら漂っています。もちろん、ヨルダンは複雑なお国柄ゆえ、パレスチナ系の妃をさがしていたということもあったかもしれません。でも、アブドゥッラーでなくても惚れるよなぁ、というのが全ヨルダン国民の一致した気持ちでしょう。

1999年、フセインの崩御によりアブドゥッラーは国王に即位、ラーニアも29才で王妃になりました。ラーニア王妃は良き妻であり、また4人の子の良き母、そしてヨルダン随一の慈善活動家でもあります。女性と子どもの地位向上のため日夜精力的に活動を続ける美貌の王妃に、ヨルダン人は理想の女性像を見いだしているようです。中には故ダイアナ妃とイメージを重ねる人も。本当に、パーフェクトな人っているんですね。(王妃の写真ギャラリーはこちら)

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2008年5月 6日 (火)

ヨルダン料理

ヨルダン料理の筆頭、「マンサフ」については以前こちらに書きました (あと羊の顔料理も)。アラビア半島の人たちもヨルダン料理のおいしさについては太鼓判を押すほどで、自分も久しぶりにサウジアラビアに戻ってきてアラブ料理を食べてみたところ (サウジ料理ではないのが残念)、ますますヨルダンのすごさを知ることになりました。今から考えると、同じような料理でもどこかひと味違っていて、きっと食べる側も舌が肥えていたんだろうなと想像しています。そのいくつかを写真で紹介します。

*1枚目:前菜 (下にあげた料理全部は写っていません)
ヨルダン料理は前菜が豊富です。メインディッシュよりおいしいんじゃないかと思う時もあり、また量もかなりのボリュームなので、セーブして食べないとメインが入らないこともあるくらいです。「タブーレ」は大量のバクドゥーニス (イタリアンパセリ)、少量のトマト、ミント、ネギを細かく刻み、レモン、オリーブオイル、コショウなどで味付けした、アラブ料理を代表するサラダ。他にはホンモス (すりゴマ入り豆ペースト)、ムタッバル (ナスのペースト)、腸詰め、血のソーセージ、ヨーグルトサラダ、オリーブサラダ、脳みそのフライ、チーズフライ、クッベ (紡錘形のメンチカツっぽいフライ)、クッベ・ナイエ (香辛料を混ぜたクッベ用の挽肉を生で食べる)、小鳥の丸揚げ、ファラーフェル (豆のコロッケ)、エナブ (ご飯をブドウの葉でくるんだもの)、マハシ (ズッキーニなどをくり抜きご飯を詰めたもの) などなど。

*2枚目:マクルーバ
「上下逆さまにひっくり返した」という名前をもつご飯料理。ご飯の上に表面を埋め尽くすほどの肉 (チキンやラム) が乗っています。ご飯にはカリフラワー、ナス、豆などの野菜が一緒に炊き込まれ、仕上げにナッツのフライがふりかけられます。ジャミード (ヨーグルトソース) をたっぷりかけて食べるマンサフが苦手な外国人は多いのですが、そんな人たちにも大好評なのがマクルーバです。自分はどちらか決めかねるほど、マンサフもマクルーバも大好きです。なお、マクルーバはパレスチナでもっともポピュラーな料理とも言われています。ヨルダンの代表料理マンサフに対して、パレスチナのそれがマクルーバなのかもしれません。よく考えたらマクルーバをごちそうになったのはどれもパレスチナ人の家でした (みんな国籍はヨルダン人)。まぁ、おいしいご飯を前にして、政治の話はよしましょう。

*3枚目:ラムすね肉のグリル
中東はラムがおいしいです。ビーフは値段も安いですがその分味もいまいち。チキンはおいしいですが、ちょっと軽い。パンチのある肉料理をガッツリ食べたいという時は、やはりラム。しかも、肉の真ん中にビシッとまっすぐな骨が通り、その部分を手で持ってガツガツとむさぼるように食べられるすね肉が最高です。写真の料理はアンマンのスウェーフィーヤ地区にあるレストランのもの。炒めたタマネギ、ジャガイモと一緒に素焼きの鉢に詰められ、オーブンでじっくりと焼かれたものです。骨からも簡単に肉がはがれるので、食べた後はきれいなツルツルの骨が残るばかりです。これは旨い!。味、ボリュームともに大満足の一品でした。(アラビア語で固有の料理名があったかどうか忘れてしまいました)

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2008年4月30日 (水)

マイス・ハムダーン

サウジアラビア初の国産長編映画であり、カンヌ映画祭でも上映された「ケーファルハール (Keif Al-Hal=How are you?)」(2006年)。世界的大富豪のプリンス・アルワリードが、「コーランに映画禁止とは書かれていない、人々は娯楽を欲している」という信念を持って製作した映画で、サウジアラビア女性の生き方や、イスラムの風俗・習慣をコメディータッチで描いた作品です (未見なので詳細はあまりよく分からず)。

主演はヨルダン人の女優兼コメディエンヌ兼歌手の「マイス・ハムダーン」ですが、彼女の友人役として、史上初のサウジアラビア人映画女優も登場します。サウジアラビアでも国産テレビドラマはいろいろと放映されていましたが、この映画以前は、女優はすべて近隣諸国からの外国人だったそうです。(今もそうかな)

映画の感想はいずれどこかでビデオを見てから書くとして、とりあえず「マイス姉さん」に関して。そう、YouTubeで彼女がテレビ出演したものを観ると、コメディエンヌとしてキャラ全開で暴走するその勇姿に、思わず「姉さん!」と声をかけたくなってしまうのです。しかしアラブにもモノマネ芸 (ナリキリ芸) があるんですね。けっこうきれいな顔立ちなのに (微妙にニューハーフ感もありますが…)、かなり気合いの入った芸を見せています。以下、YouTube動画へのリンクです。

エジプト方言でオモロイことを言いまくるマイス姉さん

誰かの歌のモノマネ (顔マネ) をするマイス姉さん

誰かのベリーダンスのモノマネをするマイス姉さん (ディナ?)

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2007年12月 3日 (月)

やる気のないラクダ?

ヨルダン観光のハイライト、ペトラで見たラクダ。1頭はしゃなりと脚をたたみ、物静かに指示を待っている様子。風情があります。顔つきも良好。こういうラクダには是非乗ってみたい。その背に揺られてペトラの風を感じてみたい。

ところがその近くにいたラクダ。もう見るからにやる気無し。手脚をくにゃんとさせ、しなを作りつつ「もう無理、歩けない、暑いし」と訴えています(たぶん)。よく見たら顔もヘン。こんな髪型(?)、初めて見たし。なんかイラッとしました。(゚皿゚)

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2007年12月 1日 (土)

ヨルダンの写真その2

ヨルダン写真(3)(4)をマイフォトにアップ。

ヨルダン (3)
・デザートキャッスル (ハラナ城、アムラ城、アズラク城)
・マダバの教会 (モザイク)
・マイン温泉
・ネボ山 (モーゼ終焉の地)
・ショウマリ自然保護区 (アラビアオリックス)
・ウムラサス (モザイク)

ヨルダン (4)
・アジュルン城
・ブラックアイリス (ヨルダンの国花)
・ジェラシュ (古代ローマの遺跡)
・樹齢3000年と伝えられるオリーブの木 (サハム村)
・ペラの遺跡
・サルトの町
・ウムジマール
・ウムカイス

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2007年11月30日 (金)

ヨルダンの写真その1

ヨルダンの写真(1)(2)をマイフォトにアップ。

ヨルダン (1)
・アンマン市中心部、Al-Qal'a(アルカルア)から見た景色
・アンマンのダウンタウン
・国立考古学博物館 (死海文書など)
・キリストがヨハネから洗礼を受けたとされる遺跡
・死海
・キングスロード(王の道)にあるカラク城
・キングスロード(王の道)にあるショーバック城
・キングスロード(王の道)に続くムジブ渓谷

ヨルダン (2)
・アカバ
・ペトラ
・ワディラム

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アンマンのスーク

ヨルダンの首都アンマンのスーク(市場)の写真をマイフォトにアップ。ヨルダン人は (中にはエジプト人ぽい人もいますけど) とても気さくで、「カメラ持ってるのか? よし撮ってくれ!」とみんな向こうから声をかけてくれました。陳列されたヒツジの顔、小玉スイカくらいあるナス、「誰が買うの!?」と思わず声が出てしまったガラクタ市、丸まったハリネズミを網に入れてプラプラ歩いていた少年。あの時は楽しかったなぁ。

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2007年10月24日 (水)

ビーズのネックレス

ヨルダンを南北に貫く古道「King's Road」の要衝、ショーバック。その城跡で、土産物売りのおやじさんに少なからぬお金を払ってビーズのネックレスを買ったことは、以前このブログで書きました。ショーバックは、十字軍がエルサレムに遠征する際に立ち寄ったと言われるほど歴史のある場所です。ここでおやじさんは長い年月をかけ、近辺の砂漠をひたすら歩きながらこつこつとビーズやコインを拾い集めたそうです。

おやじさん曰く、このネックレスにはナバティア(ペトラを造った民族)、ローマ、イスラムの各時代のものが括られているとのことでしたが、何か証拠があるわけでもなし、長らくその素性は謎のままでした。しかし日本に帰ってきてから、ある大判のビーズの本を手に入れると、なんとそっくりなビーズがいろいろと載っているではありませんか。

おやじさんがナバティア時代のものと言っていたビーズは、どうやらカーネリアン(紅玉髄)ビーズのようです。ただ、書いてあるように紀元前3~2世紀のインダス文明のものかどうかは、なんとも言えません。他にもローマンガラスビーズ(らしきもの)、ガラスに眼が入ったイスラムのモザイクビーズ(これはそうかな)と、もし本物ならみんな1500~2000年前のものということになります。うーん、そうなるとさすがにどうでしょう。本物であってほしいとは思いますが。

しかしそういう目で見つつ、改めてこのビーズのネックレスを手に取ると、思わず2000年前にタイムスリップしたような感覚にとらわれます。前世とか信じているわけではありませんが、自分がユーフラテス川のほとりで牛飼いでもしていたような錯覚を起こします。その時、宝物のビーズを落としてしまいえらい難儀な目にあったのですが、遙か2000年の時を越え、今こうして自分の手元に戻ったのかも、なんて。……なんだか泣きそう。

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2006年9月 9日 (土)

ヨルダン水事情

ヨルダンはイスラエルと1994年に和平条約を結んだことから、イスラエル領ティベリアス湖 (ガリラヤ湖) から年間5000万トンの水を引く権利を得ました。そのため、アンマンでは夏期週1日、冬期週2日ながら、安定的な給水が行われるようになりました。しかし、雨が少ししか降らない年にはこの協定が履行されないことも多く、常に不安定要因となっています。確かに、ティベリアス湖から流れ出たヨルダン川の途中にある分水地点を見ると「こんな細い川で2国の民を養えるの?」と不安をかき立てられます。ちなみに、アンマンの各家屋には地下貯水タンクがついていて、1週間分の水をタンクに溜めておけるので、節水を心がけていればほとんど断水の心配はありません。ただ、赴任したての頃1度だけ失敗しました。ある木曜日の午後、一度にまとめて洗濯をしました。1回、2回と快調でしたが、3回目の洗濯のすすぎの途中で、水がぱたりと止まってしまいました。見れば屋上の水タンクだけでなく、地下貯水タンクも空っぽでした。近所の空き地に給水車が止まっていることは知っていましたが、これも良い経験と、給水予定の日曜日 (朝8時から24時間給水) まで断水のまましのぐことにしました。他の蛇口からは屋内配管に入っていた水が出てきたのでバケツに受け、体を拭くことなどに使用。食器類は紙で汚れを拭いてそのままキープ。トイレの大きい方は近所のホテルで…。日曜日に水が来たときは心底感動しました。それからはけっこう神経質に節水を心がけました。

ヨルダン周辺の国も、水問題 (Water Crisis) になんとか対処するため、さかんに政治的かけ引きを行っています。トルコ政府がイスラエルに対し、年間5,000万トンの河川水を売却することを決めたのには理由があります。トルコも決して水が豊富というわけではなく、この10年で巨額を投資し、チグリス・ユーフラテス川に22のダムと19の水力発電所を建設してきました。さらなる水量確保のため、新たなダムを建設する計画が進んでいますが、そのため下流のシリアおよびイラクとは緊張状態が続いています。そこにアラブの天敵であるイスラエルの存在をちらつかせることで、圧力の緩衝を図ったのだと思います。チグリス・ユーフラテス川とナイル川の水利権については、流域周辺諸国間で現在もぎりぎりの折衝が続いています。中東の水問題はまさに一触即発の状態なのです。
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アンマンの雪

2002年1月7日、午後3時半から降り始めた雪は、夕方から本降りとなり、よる8時になって約10cmの積雪となりました。見渡す限りの銀世界とはこのことです。それまでずっと「中東=灼熱の砂漠」というイメージを持っていましたが、中東暮らしで初めての雪、しかも町全体が白く覆われる本格的な雪景色を目の前にして、言葉にできない感動に包まれていました。しかし、アンマンはとにかく坂道の多い町で、平坦な道はほとんどありません。家のベランダからも、あきらめて乗り捨てられた車が何台も見えました。自宅の向かい側にはゆるい傾斜の幹線道路があり、そこを上ろうとする車から甲高いアクセルの音が何度も何度も聞こえてきました。たった10cmの雪ですが、相当な数の車が立ち往生したことでしょう。しかもその日は午後から携帯電話が使えなくなっていて、誰かを救援に呼ぶこともできなかったと思います。最初は雪景色を単純に喜んでいましたが、次第に雪の恐ろしさを感じるようになりました。

翌日、午前中は雨模様でした。窓の外はまだ一面の雪です。車で走るにはあまりにも危険なため、官庁、学校など、ほとんどの機関が休みになりました。近所を散歩すると、あちこちで木の枝が雪の重みで折れていました。その日の午後、次の日の出勤に備えて自宅駐車場の前を、生まれて初めて雪かきしました (少し傾斜があるので雪でスリップしてしまう)。ほんの数メートルの範囲ですが、やってみると意外に大変です。結局、2時間もかかってしまいました。途中、どこからともなく犬が2匹やってきて、ひとしきり遊んでまたどこかに行ってしまいました。雪の日、やはり犬は元気なんですね。
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2006年9月 8日 (金)

自国に戻れない

中東諸国から訓練生をヨルダンに招き、機械系訓練コースを実施した時のことです。パレスチナ自治政府からも参加者を受け入れましたが (当初「国じゃないからダメ」みたいなことも言われましたが…)、彼らは到着早々、ヨルダン政府の当局に呼ばれ、滞在許可を出す代わりに情報収集に協力するよう求められたそうです。彼らは目を真っ赤にしながら「同胞を密告することはできないし訓練コースには参加したいし、どうしよう…」と相談してきました。最終的には無事に滞在許可がおりましたが、まるで映画のような話に数日間緊張しっぱなしでした。もともと懸念していたことでしたが、コースが始まってほどなく、パレスチナ自治区と外部をつなぐ国境がイスラエルにより封鎖されてしまいました。その後も情勢は改善の兆しを見せず、とうとうコースの終了日を迎えても、国境は封鎖されたままでした。パレスチナからは2人の研修生が参加していました。1人はヨルダン川西岸のヘブロン、もう1人はガザからです。ヘブロンはイスラエル軍により完全占拠され、ガザの場合はもともとエジプト経由でヨルダンに入国していましたが、この時はエジプトとガザを結ぶラファハロードが閉鎖されたままでした。結局、しばらくの間彼ら2人はアンマンに残らざるを得ませんでした。なぜ自分の国 (正式には国ではありませんが) に戻ることができないのか。こんな理不尽なことはありません。それにしても、隣国と土地が接していない日本では、考えられない話です。この時も日本の友人に「こんなことがあってねぇ」と説明しましたが、いまひとつピンときていなかったようでした。

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2006年9月 7日 (木)

野火

空き地の多いアンマンの我が家の周りでは、毎年野火が頻発していましたが、ある時はついに家の隣の空き地で野火が発生しました。夕方涼しくなったころ部屋の窓を開けると、何やらきな臭い匂いが漂い、バチバチと激しい音が聞こえてきました。見れば直径数メートルに渡って枯れ草が炎をあげています。下の階の大家さんの部屋からも慌ただしい雰囲気が伝わってきました。結局大家さんがバケツに水を汲んできて消火作業をしたため、大事には至りませんでしたが、月に1回くらいはこんなことが繰り返されていました。消防車による消火活動も何度か目にしましたが、基本的には枯れ草が燃えてしまえばそれ以上大きな火災にはならないことから、消防隊員はまず枯れ草の延焼具合をじっくりと観察します。必要であれば放水をしますが、その量も、日本人が庭で水まきをするくらいのわずかなものでした。やはり水は貴重なんですね。
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2006年9月 6日 (水)

資産は金で

中東の女性は、それこそ赤ちゃんのうちからピアスなどにして金を身に付けています。結婚するときも金のネックレスや指輪などを親戚からプレゼントされるそうです。これは銀行システムへの不信感によるものかと思い、ヨルダンの職場で聞いてみました。その女性は「貴金属を買うのは伝統的にそうだから、預金しないのはする余裕がないから」と答えてくれました。ただ、彼女が結婚したときには金1グラムが10JD (1700円) したそうですが、10年たった今では1グラム5JD程度だそうです。これはJDの対ドルレート大幅下落のせいで、別のヨルダン人も、ドルに換算したら15年前と給料が変わらないと嘆いていました。

中東で金スーク (マーケット) といえば、日本ではドバイがおなじみです。さすが中東の金融センター、アンマンとは比べものにならないくらい、数多くの金屋が軒を連ねていました。しかもド派手なネックレスが山のようにディスプレイされています。いったい誰が買うのでしょう。そもそもこんなの恥ずかしくて外につけていけない、と思うのは私が貧乏性だから?
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体重計

アンマンのダウンタウンなどを歩いていると、ときどき道ばたに置かれた体重計を見ることがあります。一度乗ってみようかと思っていたら、ある日それに乗っている人を見かけました。すると、どこからともなく人があらわれ、体重をはかった人からなにがしかのお金を受け取っていました。なんとものんびりした商売だなぁと妙に感心した覚えがあります。ヨルダン離任が近づいた日、職場で使っている自分のパソコンを一度箱詰めし、体重計に乗って重さをはかりました。業者から運送賃の見積もりを取る必要があったからです。自宅から体重計を持っていったのですが、職場のスタッフが私の部屋の前を通るたび「おっ!」という顔をしていきます。そのうち、ある1人が体重計に乗り、すぐにまた2人連れてきて体重をはかるよううながしました。こうして一度体重計に乗った人は、また次の日も部屋に来て乗っていました。皆わりと体重に関心があるようです。それにしても、皆が皆、横に座っている私に体重を報告してくれたのはなぜでしょう。

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2006年9月 5日 (火)

ヨルダンは誰の国か

ヨルダンはベドウィンの国である、と言い切るのは必ずしも間違ってはいません。そもそも国境線が引かれたのは西欧の陰謀でしたが、国の成立過程において、当時この地に住むベドウィンが果たした役割は計り知れないものがあるからです。しかしその後、ヨルダン国王となったのはアラビア半島西部のヒジャーズ王国から迎え入れられたハーシム家でした。また、パレスチナ難民を多数受け入れた結果、人口 (520万人) の6割以上がパレスチナ系と言われています。もし、静岡県に愛知県民が全員で引っ越してきたら、それはすでに静岡県とは言えないのではないでしょうか。日本語を話しお米を食べるという共通点はあっても、方言や食文化、県民性は両者ともかなり違います。ヨルダンでは、こういったことが現実に起きているわけです。しかもパレスチナ系は危機感が強いせいか、高学歴志向で優秀な人間が多いのも事実です。もともとヨルダンに住む人たちが、パレスチナ人に国を乗っ取られたように感じているのではないかと、時々気になることがあります。ただこれも、質問してはいけないことのひとつだと思います。

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入国制限

ヨルダン政府としては、国内にこれ以上のパレスチナ人があふれてしまうと内政にも影響が出かねないことからか、西岸からのパレスチナ人の入国をかなり厳しく制限しています。私がいた当時も、ヨルダン政府の招待か、あるいは人道目的でなければ入国は一切不可能な状況でした。知人の親戚が、アンマンで行われる兄弟の結婚式に出席しようといろいろ試みましたが、正攻法ではうまくいきませんでした。最終的にとった手段は、なんと急病人として救急車に乗ることでした。さすがに、病人の緊急移送は入国が認められます。なんだかスパイ大作戦のような話ですが、こんなことをしなければならない現状こそが異常なのだと思います。国境とは、いったい何なのでしょうか。

ヨルダンとパレスチナの国境線となっているヨルダン川に、キングフセインブリッジは架けられています。国境の川と言っても、実際ヨルダン川の水はもうかなり少なくなっていて、ほんの小川程度の川幅しかありません。パレスチナとイスラエルの紛争激化以来この橋はずっと閉鎖されていますが、ごくたまに通行許可のアナウンスがあります。ヨルダン治安当局の発表として現地英字紙に載った記事は「本日キングフセインブリッジ通行可。8am~2pm:一般及びトラック、2pm~8pm:外交官及び人道目的」というそっけないものでした。小さな記事でしたが、この朝刊を読んで人々は橋に殺到したはずです。ヨルダンとパレスチナのまさに架け橋として、日本の協力によって改修されたキングフセインブリッジですが、時代の波に翻弄されているようです。
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2006年9月 4日 (月)

ハウスキーパー

アンマンで家を決めるとき大家さんにハウスキーパーを紹介されて以来、週に1度家の掃除をやってもらっていました。スリランカの女性で、アンマンにはもう何年も住んでおり、今は何軒もかけもちでハウスキーパーの仕事をしています。いつもこちらの出勤中に来るので直接その仕事ぶりを見たことはありませんが、掃除の日は帰宅すると家の中がきっちり整理整頓されています。ただ、彼女なりの癖があるようで、灰皿は食器棚に入れる、洗面台の石けんは窓際に置き直す、ハムスターのケージは背面を前にして置き直す、体重計は机の上に乗せる、歯ブラシを入れたコップの中にハサミとクシを入れる、まな板は電子レンジと壁の狭い隙間に入れる、といったことがずっと続けられました。初めて掃除をされた日、灰皿がみつからなくてしばらく探し続けましたが、1週間後に食器棚で見つけた時はなんだかポカンとしてしまいました。まぁ確かに透明なガラス製なので器に見えなくもないですが…。ある日、台所に置いてあったアヒルのおもちゃにふと目をやると、あろうことか髪型がソバージュになっていました。一瞬我が目を疑いましたが、よくよく見るとそれはキャベツの葉で、乾燥してちりちりになったのがパーマに見えたのでした。彼女がおしゃれのつもりでやったのでしょうか。謎だ…。

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温水から冷水

アンマンは、クーラーがなくてもなんとか我慢できます。中東4ヶ国目にしてはじめてクーラーのない自宅と職場でしたが、熱くて眠れないと思う日は年にせいぜい数日。たいがいその時期は夏休みをとって海外に出ていましたから、実際に困ったことはありませんでした。しかし、ある時、アラビア半島から北上してきた熱波がアンマンを襲い、6月にしては例年より5~7度ほど高い気温になりました。朝8時に出勤すると、部屋の中の空気がボワ~ッと生ぬるく、すでに30度を超えていました。すぐに窓を開けて涼しい外気を入れましたが、外の方が涼しいのも9時くらいまで。それ以降は窓を開けても熱風が入ってくるばかりで、午後には室内温が34.5度にまで上がりました。這々の体で帰宅すると、何はともあれ冷たいシャワーを浴びようと、バスルームに入りました。しかしこちらでは水タンクが屋上に設置されています。冷水の蛇口をひねって5分もすると、ぬるいお湯が出始めました。こんな時は、すかさず蛇口を温水側にひねります。すると、またしばらくは冷たい水が出てくるのです (ボイラースイッチは当然OFF)。初めて経験される方はかなり面食らうでしょうね。アンマンはまだ生ぬるいお湯でしたが、サウジアラビア (リヤド) では冷水の蛇口をひねるとやけどしそうなほど熱々のお湯が出てきました。実際に手をやけどされた方もけっこういましたから、シャレになりませんね。

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2006年9月 3日 (日)

ヨルダンの空港にて

日本からの出張者を出迎えに、クイーンアリア国際空港に行ったときのことです。ターミナルに入ってフライトの到着予定時刻を確認すると、予定のフライトは「19:25 On Time」と表示されていまい。しかし掲示板には、19:00から19:45にかけて、ローマ、パリ、アムステルダムなどから9本のフライトが到着予定となっていました。どおりで、出迎えの人でごった返しているわけです。その後のフライトは21:30、23:30、00:01と3本のみでしたから、もう少し到着時間を分散したら良いのに…。さて、荷物チェックを終えて出てくる旅客を見ていたとき、一緒に行った運転手がある一団を指さし「あれはシークレットポリスだぞ」と言ってきました。その男性4人組はそろって長身、角刈り、かちっとしたスーツ、眼光が鋭くただ者ではない雰囲気を漂わせています。そして同じアタッシュケースを右手に携えていました。20分ほどすると、また先ほどのような男性2人組が出てきました。長身、角刈り、スーツ、アタッシュケース、ただ者ではない…。「あれもシークレットポリスだよね」とそう言うと、運転手は満足そうにうなずいていました。なんだか全然シークレットじゃないような…。

ある日、旅行から戻りクイーンアリア国際空港の入国審査カウンターに急ぐと、その日はいつになく混んでいました。10個ある窓口がすべて開き、それぞれに20~30人ほど並んでいます。こんな時はどの列に並ぶか大いに迷うところです。人数の少ない列でも、よく見ると手に家族のパスポートを10冊近く持った人もいるので要注意です。その日は、なぜかトランジットの札を持って入国審査に並んでいる人がたくさんいました。係員も途中でそれに気がつき皆に注意をうながすと、私の列からも10人ほど抜けていきました。この空港にはヨルダン人専用の入国審査窓口がありません。私の前のヨルダン人は外国人よりも入念な審査を受けていて、この国の複雑な事情をかいま見た気がしました。入国審査が終わると、エスカレーターの手前に入国スタンプの確認をする係員がいます。係員が1人のパスポートをなかなか放さないため、狭い通路はたちまち人であふれてきました。聞き耳を立てていると、どうやらその女性はあまりの混雑に嫌気がさして、入国審査を素通りしてしまったようです。「アラブだなぁ」としみじみ思いました。

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ウム・エルジマール

アンマンの北東にあるザルカを通り抜け、そのまま北に40分ほど走るとマフラクの町があります。そこからイラク国境に延びる道路をしばらく進むと、ウム・エルジマールに着きます。「ラクダの母」という名を持つこの小さな村は「砂漠の黒い宝石」とも呼ばれ、かつてのデカポリスの辺境に位置していました。漆黒の玄武岩を利用して建てられた石造りの家、教会、古代ローマ時代の兵舎や砦が現存しています。ウム・エルジマールでは冬に降った雨を貯水池に溜めていたので、夏でも飲み水や灌漑用水に困ることはありませんでした。5~8世紀には交易の中継地としてずいぶん繁栄したそうです。歴史に名を残すのは1世紀から約700年間ですが、崩れた建物に所々残るアーチなどが、当時の繁栄ぶりや技術力の高さを想起させてくれます。
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ペラ

ウム・カイスをヨルダン川沿いに20kmほど南下すると、山間の里に隠れるように残るペラの遺跡があります。ジェラシュとウム・カイスを見た後だったので、その規模の小ささにせいぜい「ふ〜ん」と鼻を鳴らす程度のものだったのですが、強烈に印象に残っているのは遺跡を見下ろす高台に建つレストランで食べた魚のフライです。ヨルダンではほとんど魚を食べませんでした。アカバで1回、アカバ帰りの人にもらったマグロを1回、そしてペラの川魚です。2年間でたった3回。この時、数ヶ月ぶりに食べた魚のフライのなんとおいしかったことか。確かにヨルダンは肉、特にヒツジがおいしいことは事実ですが、やはり私は他の大多数の日本人と同じく "Fish Eater" なんだなと痛感しました。
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ウム・カイス

ウム・カイスはイスラエル領ゴラン高原と隣接した村です。かつてはガダラ (古語で要塞の意) という名の都市で、ローマのデカポリスという都市連合のひとつでした。列柱、ローマ劇場、神殿、浴場などをもつウム・カイス遺跡は、ゴラン高原と遠くにティベリアス湖を見下ろす高台にあり、週末は地元の観光客を集める名所となっています。紀元前3世紀末、それまでプトレマイオス朝 (エジプト) の支配下にあったガダラを奪取したのはセレウコス朝のアンティオコス3世でした。それから100年後、ガダラはユダヤ人の手に落ち、紀元前63年にはローマの属領となります。現在残る遺跡の多くは、ローマ支配の時代に建造されたものです。しかしビザンチン時代には地震により建物が崩れ、時代の経過とともに徐々に衰退していきました。
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2006年9月 1日 (金)

玉ねぎ

玉ねぎの栽培の歴史はとても古く、古代エジプトやメソポタミア文明の昔から始まっていたそうです。エジプトのピラミッド建設に従事した労働者には玉ねぎが給料として支払われたという説もあり、玉ねぎの壁画も残っているそうです。このように中東とは縁の深い玉ねぎですが、ヨルダン人も玉ねぎをよく食べます。刻んで料理に使うのはもちろんですが、小玉をバーベキューで丸焼きにするととても甘く、玉ねぎはこんなにおいしいものだったのかと見直してしまいました。もちろん、そのまま生で食べることもあります。レストランに入ると、サラダということなのか、小さな玉ねぎが丸のまま出てくることがあります。ピリッとした玉ねぎの辛みが、また食欲をそそります。今でこそ日本はアメリカに次ぐ世界第2位の玉ねぎ生産国ですが、栽培が始まったのは明治になってからです。これは、日本にはすでにねぎが浸透していて玉ねぎの入り込む余地がなかったからだそうです。

1年か2年に1度、休暇で日本に帰っていますが、スーパーマーケットに行くたび、その野菜の毒々しいまでの鮮やかさ、形の完璧さには、ほとんどため息が出てしまいます。玉ねぎにしても、中東で見るものは皮もむきにくいし形もいびつ、半分しなびているくせに、ひとたび刻み始めると暴力的なまでに目にしみます。トマトしかり、ニンジンしかり。日本で売っている野菜はどうしてあそこまで完璧なんでしょう。しかも1パックが小さいし。農家の人のたゆまぬ努力と言ってしまえばそうなのですが、むしろ不自然さを感じたりして…。
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春菊

春菊を食用とするのは東アジア地域だけで、ヨーロッパなどではもっぱら観賞用とされるそうです。2002年春、ヨルダンの北にあるオリーブ畑を見に行ったとき、一面を埋め尽くす花の群生には心底感動しました。そして色とりどりの花のなかでも、ひときわ勢いよく咲く黄色い花の一群がありました。マーガレットのような花ですが、よく見るとその葉っぱにどうも見覚えがあります。一緒に行った、植物に詳しい方に聞いてみると、やはりそれは春菊でした。すると、あれだけ美しいと思って見ていた花が急に「おいしそう」に変わるから不思議なものです。この花を見てお腹を鳴らす日本人を、きっとヨルダン人はおかしいと思うでしょうね。ゴボウも欧米人にとっては木の根っこにしか見えないそうですが、こんな時は日本人に生まれて良かったと思います。

ヨルダン人に「日本で変だと思った食べ物は?」とたずねると、まずは納豆があがります。たぶんおもしろ半分で食べろとすすめる日本人が多いのでしょう。それから海苔。「なんで紙を食べるの?」とまったく納得がいかないそうです。そもそも外国にはあまり黒い食べ物はありませんから (イカスミも地中海諸国以外ではあまりポピュラーではないとか)、黒い上にほとんど紙そのものの海苔は、いくら日本人が「海苔にしょう油をつけたらご飯何杯でもいける!!」なんて言ったって理解してはくれません。お茶漬けも、相当違和感があるようです。世界有数の経済力を獲得した日本人が、なぜかご飯に塩とお茶をかけて喜んで食べている姿は、まったくもって理解不能とのことです。「日本は戦後の貧しい時代を思い出すためにあれを食べ続けているのか」と真顔で聞かれたこともありました。うーん。本当においしいんですけどねぇ。
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2006年8月29日 (火)

赤十字/赤新月

1859年、スイスで創設された赤十字は、現在は国際赤十字運動と呼ばれ、赤十字国際委員会と赤十字社国際連盟および160余の各国赤十字社で構成されています。ここで「イスラム圏でも十字なの?」と思った方はなかなかの事情通です。その通り、アラブでは赤十字 (Red Cross) ならぬ「赤新月 (Red Crescent)」と名を変えています。マークは赤い三日月です。やはり十字は十字架、つまりキリストのシンボルですから、イスラム教徒が使うわけにはいきません。ただし、両者がいがみ合っているかというとそんなことは全くなく、ヨルダン赤新月社もアメリカ赤十字社から、9.11同時多発テロ以降のニューヨークでの救援活動に対する感謝状を受け取ったりました。人道支援にクリスチャンもムスリムも関係ありません。それにしても、日本はこういった宗教に関する点は極めておおらか (いい加減?) で、仏教徒のくせに平気でクリスマスカードを配ったりします。一方、これはまた極端な話ですが、サウジアラビアではクリスマスカードの販売やクリスマスの店頭飾り付けは完全に禁止されていました。暦もヒジュラ暦ですから、12月になっても日本で見られる年末独特の雰囲気はまったくありません。当時は衛星放送も禁止されていて、世界中がクリスマスに浮かれている時期に、そんなこととはつゆ知らず、12月26日になって「あ、ケーキ食べるの忘れてた」と気づいたことがありました。あれは我ながら愕然としました。

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2006年8月28日 (月)

道端のオリーブ屋

アンマンの自宅の前の道路端にスイカの露店ができたのは6月くらいのことです。暑い盛りにはテントの中に山のようにスイカが積まれていました。何度かスイカを買って店のおじさんとは顔見知りになり、値段も多少まけてくれるようになりました。しかし10月になりだんだんと秋の気配を感じるようになると、スイカは補給されなくなり、少しずつ山も小さくなっていきました。これでおじさんも田舎に帰るのかなと少し寂しさを感じていたとき、新しく品物が並べられているのに気づきました。オリーブです。パレスチナから運ばれた今年の初物だと言われ、割高なのを承知で買うことにしました。実は、そのまま絞ればオリーブオイルがとれるものだと勘違いしていたので「10kgちょうだい」と気軽に注文しました。おじさんは満足げにうなずき、大きなハンドルの付いた漏斗のような機械にオリーブをザラザラと入れ、ハンドルをぐるぐる回し始めました。最初にオリーブに塩をまぶした時点で「おや?」と思ったのですが、とりあえず機械の下の方からオリーブオイルが出てくるものだと信じて、出口の一点をじっと見つめていました。しかしそこから出てきたのは適度につぶされたオリーブで、オイルなど1滴も出てきません。「おじさん、これは何?」とたずねると「何日かおけばちょうど良い塩加減の漬け物ができあがるよ」と笑顔で言われました。ガーン。最初に言ってほしかった…。というか「オイルにして」と聞かなかった自分が悪いんですけど。もっとも、その後インターネットで調べてみると「オリーブオイル作りはとても難しい」ということがわかりました。そもそも道端でできるものではなかったわけです。オリーブの塩漬けはとても美味しかったのですが、大半は食べきれませんでした。
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リサイクル

ヨルダンはかなり乾燥しているので、しょっちゅう水分補給のためジュースを飲んでいました。そうして空き缶がかなりたまったとき、前々から気になっていたダウンタウンの鉄くず屋に出しに行ってみました。以前その店を見つけた時は、鉄くずや空き缶を持参する面々が、どう見ても生活に困っている風の人たちだったので、自分もそう見られたらちょっと恥ずかしいと思い、缶を黒いゴミ袋に入れ外からは見えないようにして、いそいそと現場に向かいました。そこはビルとビルの隙間、道より少し下がったところにあります。金曜日 (週末の休み) の午後だからか、その日はかなり混雑していました。あらためて見ると、鉄くず屋、金物屋、それに食堂まであって、鉄くずを持参する人もひっきりなし、威勢のいい声が飛び交い、とてもパワフルな雰囲気でした。想像していた通りあちこちから鉄くずを拾い集めてきたような面々もたくさんいましたが、別に恥ずかしがる様子もなく、もちろん店の人もお金を渡す時しっかり「シュクラン (ありがとう)」と声をかけていました。両者に利益をもたらすリサイクルシステムがきちんと確立されているなぁと感心しました。さて、この時はアルミ缶を60缶、約900グラムを出し、代金として300Fils (50円) を受け取りました。油まみれのコインでしたが、ちょっと嬉しかったです。
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2006年8月27日 (日)

ブラックアイリス

毎年2月、アンマンの春は野山がいっせいに緑に覆われます。夏の間ほとんどすべての植物が枯れ、丸坊主になっていた山が、一気に生気を取り戻す季節です。この時期はよく郊外にドライブに行きました。自宅から20分ほど走ると、そこには花と緑に覆われた野山が広がっています。野原一面を埋め尽くす菜の花、岩の陰にちょこんと生える可憐なシクラメン(原種)、そして桃か桜かと見紛うばかりに咲き誇るアンズやアーモンドの花、花、花。訪れた場所は、足下は目もくらむような渓谷で、谷底には小川が流れています。ぽかぽかした太陽、おだやかな風、日本では聞いたこともないような鳥のさえずり。もし桃源郷があるのなら、きっとこんな場所に違いないと思わずうなずいてしまいました。

ヨルダンの国花、そして実は花の王国でもあるヨルダンの春の象徴「ブラックアイリス」。「この辺りにある」というあいまいな情報を頼りに半月ほど足繁く通い、3月上旬にようやくその姿を見ることができました。車の窓から最初に見えたのは、珍しいアザミの花でした。足場が悪く崩れそうな斜面を登り、アザミの花やそのまわりにある何種類もの花を写真に撮っていたとき、ふと、黒紫の花が目に飛び込んできました。あわてて斜面を駆け上がると、そこには、思いのほか大柄なブラックアイリスがありました。見るまでは、可憐、繊細、清楚、などという言葉を想像していましたが、実物は威風堂々として、周囲の花を圧倒する存在感を放っていました。さすが国花、余裕の貫禄勝ちといったところでしょうか。
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ヨーグルトドリンク

職場のスタッフに招待され、彼の田舎の家に行きました。家の周りは見渡す限り畑が広がっています。彼のお兄さんに「良いところですね」と言うと、「湿度があって最高だろ」と笑顔で答えてくれました。土地の善し悪しを湿度ではかるのは初めてだなぁと感心していたとき、隣家の住人に声をかけられました。自家製の「シャニーネ」という飲み物をごちそうしたいとのことだったので、ありがたく受けることにしました。運ばれてきたコップの中身は一見カルピス風で、聞けばやはりヨーグルトドリンクでした。いただきますとつぶやいて、ぐっとひと口飲んだ瞬間、思わず「うぅ…」とうめいてしまいました。甘い飲み物だと勝手に思いこんでいたら、それはとても塩辛いものだったのです。私のコップには隣家8人の熱い視線が注がれていました。どぎまぎしながらコップ1杯をなんとか飲み干し、「ありがとう、とても美味しかった」とやや顔を引きつらせながら、それでもなんとか笑顔で言うと、それを聞いて隣人の皆さんも満足げな顔で家に戻っていきました。それにしても、こうして他人 (外国人) に持ってきてくれるのですから、たぶん自慢の逸品だったのだろうとは思いますが、脳の理解が舌についていきませんでした。昔、吉祥寺の喫茶店でラッシーホット (辛いヨーグルトドリンク) を飲んだ時以来の衝撃でした。

ちなみに、サウジアラビアに赴任したての人は、牛乳 (ハリーブ) と間違えて必ず一度は「ラバン」を買ってしまいます。ラバンはヨーグルトドリンク (というよりほとんどヨーグルト) で、たいていどこのスーパーでも牛乳と同じ並びにあり、パッケージは牛乳と同じデザインで色違いなだけ。そして封を開けてコップに注ぐとあらビックリ、どろりとした液体が出てきて、ほとんどの人は「この牛乳腐っている!!」と勘違いします。と書いていたら久しぶりにラバンが飲みたくなってきた!!

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2006年8月26日 (土)

アラブ人物伝

■ハーシム家
ハーシム家は、預言者ムハンマドやアッバース朝などを生みだした家系です。メッカにあるカーバ神殿の管理者だったクライシュ族はハーシム家の子孫とされています。ハーシム家の一族には、イスラムの創始者ムハンマドや、彼のいとこで、第4代正統カリフのアリーがいました。750~1258年にイスラム世界を支配したアッバース朝の創始者サッファーフは、ムハンマドの叔父アッバースの子孫にあたります。第1次世界大戦中にアラブの反乱にかかわり、イギリスの支援をうけて1916年にヒジャーズ王となったメッカのフセインは、ムハンマドの後裔でハーシム家の40代目でした。ヒジャーズ王国は、のちにサウジアラビア王国を創設するアブドゥルアジーズ・イブン・サウドにより1924年にたおされましたが、フセインの息子にはジョルダンの初代国王アブドゥッラー、イラク国王ファイサル1世らがいます。

■イブン・サウド
イブン・サウドはサウジアラビアの初代国王です。アラビア半島ナジュドのスルタン、ファイサルの孫で、イスラム改革運動ワッハーブ派の指導者でした。1900年の初め、父親がうしなったナジュドの支配権をとりもどしました。第1次世界大戦中、イギリスはアラビア半島のヒジャーズ地域の政治的・宗教的指導者で、イブン・サウドの政敵フセインを支援し、フセインはヒジャーズ王国の樹立を宣言しました。これに対しイブン・サウドは、1919年にヒジャーズに侵入し、1924年にはフセインとその長男アリーを退位させました。1926年「ヒジャーズの王、ナジュドとその属領のスルタン」を称したイブン・サウドは、1932年にこれらの地域をサウジアラビア王国 (サウド家のアラビア王国) とし、1936年には近隣アラブ諸国と国境線などの条約を結びました。以後、アラブの結束をとなえ、1945年のアラブ連盟の結成には大きな役割をはたしました。

■ファイサル
ファイサルはヒジャーズ王国を樹立したフセインの三男で、後のイラク国王です。アラビア半島のメッカで生まれ、コンスタンティノープル (イスタンブール) で教育をうけました。第1次世界大戦中、シリアでオスマン帝国軍につかえましたが、1916年にヒジャーズへのがれ、父や兄弟とともにアラブの反乱に加わりました。1918年、イギリスのT.E.ロレンスに助けられて、オスマン帝国からシリアのダマスカスを奪回しました。1920年3月に、アラブ・シリア国民会議は彼をシリアの王と宣言しましたが、フランスが国際連盟委任の名のもとにシリアを占領した7月に追放されました。しかし、1921年8月、イギリスのイラク委任統治政府が許可した国民投票で、96%の得票をえてイラク国王となりました。彼の死後 (暗殺説も根強い)、王位は息子のガージー1世が短期間ついだあと、その息子ファイサル2世へとひきつがれましたが、1958年のイラク革命によって処刑され、王朝は廃絶しました。

■アブドゥッラー
アブドゥッラーはヒジャーズ王国を樹立したフセインの次男で、後に初代ヨルダン国王となります。第1次世界大戦中の1918年9月、アラブ独立軍とイギリス軍によって、ヨルダンはオスマン帝国から解放され、戦後、イギリスの委任統治領となりました。1922年、イギリスは委任統治領を2つの地域にわけ、ヨルダン川の西岸全体をパレスチナ、東側をトランス・ヨルダンとし、1928年2月、イギリス委任統治下のトランス・ヨルダン首長国が成立しました。このときの首長がアブドゥッラーです。イギリス政府は、1946年3月22日、トランス・ヨルダンの委任統治を放棄し、ヨルダンは正式にイギリスから独立しました。5月には、アブドゥッラーが初代国王として即位しました。ヨルダン・ハーシム王国という国名は、メッカのハーシム家、すなわち預言者ムハンマドの直系ということを強く誇示しています。1951年7月、アブドゥッラー1世は暗殺され、9月に子のタラール1世が後をつぎましたが、翌年8月、ヨルダン議会は病弱なタラールを退位させ、タラールの17才の子を即位させました。これが現国王の父君、フセイン1世です (1999年崩御)。

■T.E.ロレンス
イギリスの探検家・軍人・考古学者、というよりも「アラビアのロレンス」と言った方が通りがよいでしょう。第1次世界大戦が勃発し、オスマン帝国がドイツ側にたって参戦すると、カイロの軍情報部勤務を命じられて対オスマン帝国工作に従事しました。1916年にはメッカに軍事顧問として派遣され、以後、アラブ人とともに生活しながら、オスマン帝国に対する彼らの反乱を支援しました。砂漠の民ベドウィンの知恵を生かした奇襲戦法で次々にオスマン帝国軍をやぶり、1918年にはファイサル (後にイラク国王) とともにダマスカスを占領し、イギリスの中東作戦の成功に大きく貢献しました。1921年、ようやくファイサルをイラク国王に、彼の兄アブドゥッラーをトランス・ヨルダンの統治者 (後にヨルダン国王) にすることが決定されると、翌1922年、植民省アラブ問題顧問の職を辞し、以後は変名をつかって一兵士として空軍や戦車隊に勤務しました。1935年2月に除隊となり、まもなくオートバイの事故をおこして死去することは、映画「アラビアのロレンス」でも描かれています。

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2006年8月25日 (金)

幸福

「コーランにはすべてが書いてあるんだ、コーランに従っていれば人生間違いなしだよ」 こんなことをよく職場で言われました。その度、私は昔読んだクリシュナムルティの本を思い出します。「幸福とはいっさいの抵抗がない状態である」 とその本には書いてありました。これは個々人が前向きに社会と関わっていく必然性を語ったものですが、口の悪い人がいて、ならば幸福とはとても消極的な姿勢ではないかと疑問を投げかけます。向上心や競争心を抱いている以上、幸福にはなり得ないのかという疑問です。難しい話なので、たぶん私も理解はしていません。ただ、コーランという明確な規範をもつイスラム教徒は、やはり幸福なのではないでしょうか。個人の幸福と集団 (社会) の幸福と、またいろいろあるでしょうが。

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カゼ薬

総合感冒薬、いわゆるカゼ薬は外国では売っていません。症状によって解熱剤や消炎剤、ビタミン剤などを購入することになります。当然、薬局であれこれ説明しなければなりません。これが面倒くさいと思う日本人は私だけではないはずです。ただでさえ体がつらいのに、のどや額を指さしつたない英語でゼスチャーゲームをする羽目になります。一方、日本ではいわゆるカゼ薬がどこでも売られています。「これ1粒飲めばOK」という安心感。カゼ薬という大発明をした日本人に敬意を表します。さて、軽いカゼなら、暖かい飲み物をとることで治ってしまう場合も多いと思います。ヨルダンでは、バブーナジュ (カモミール) ティーがその代表です。たくさん飲むと体がホカホカして、安眠にも効果があるそうです。のどが腫れたときは、ヤンスーン (アニス) ティーがよく効くそうです。ハチミツをちびちび舐めながらカモミールティーを飲む。カゼをひきそうなときの私の定番になりました。ある時、カゼをひいてダウンしていたら1階に住む大家さんが心配してくれて夕ご飯の差し入れを持ってきてくれました。典型的なご馳走アラブ料理だったのでとても脂っこく、悪いとは思いましたがほとんど食べられませんでした。また、大家さんはカゼをひいた時はレモンとハチミツ、お腹の調子が悪かったらヨーグルトにニンニクを入れて食べればバッチリ治るぞと言い残していきました。ヨーグルトにニンニク…。ちょっとトライする勇気はありませんでした。お醤油をかけたらあうかも?

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2006年8月24日 (木)

イードの日

アンマンのイード・アルアドハー (犠牲祭) の日は、それまで道ばたの空き地に設けられていたヒツジの市でも、昨日までと違って屠殺が行われており、毛皮は山積み、内蔵が散乱、道路には血が流れ出しています。イードの日は全世界のイスラム教徒たちによって一度に数百万頭のヒツジが屠殺される日でもあり、アンマンの町でもまさにこれが行われています。こんな血なまぐさい光景を見てしまうと、次にヒツジを食べるとき思わず躊躇してしまいそうです。イードにヒツジを1頭まるごと買うことができた家庭では、イスラムの教えにより、3分の1を自分用に取り、残り3分の2は他者に施しをするそうです。職場のあるヨルダン人は「今年は子供が生まれたのでヒツジを買うお金がない」と大変残念がっていました。ヒツジを自ら屠殺し、隣近所や貧しい人たちに肉を分け与えるという行為ができないことに、成人男子としてふがいなさを感じていたようです。イスラム教徒も大変ですね。

アンマン郊外に行くと、普段と違って家の外で遊ぶ子供の姿をよく見ました。それまでにも何度か来た道でしたが、この村にはこんなに子供がいたのかと、軽い驚きをおぼえたほどです。イードの日は、言ってみれば日本のお正月です。特に女の子は着飾って、堂々と家の外で遊んでいます。女性を家の中に隠す傾向のあるイスラム教ですが、イードはハレの日の雰囲気が漂っていました。丘の上に車を止め、春の景色に見入っていると (この年は2月下旬でした)、たちまち近くにいた子供たちに取り囲まれました。「サウウィルニー (写真撮って!)」と大騒ぎです。「子供は元気だな」とあたり前のことをあらためて感じました。
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イードのご馳走

イスラム暦12月をハッジ (巡礼月) と言います。太陰暦 (1年=354日) なので毎年西暦とは季節がずれていきますが、今は1月頃でしょうか。巡礼月の10日はサウジアラビアのメッカ巡礼の最後にあたり、巡礼者は動物犠牲を捧げます (イード・アルアドハー/犠牲祭)。この日、イスラム世界の各家庭ではいっせいに動物を屠りますが、それに合わせ、アンマンのあちこちでもヒツジの市が立ちました。それまで空き地だった場所に突然囲いができたと思ったら、たちまち数百頭のヒツジが運び込まれてきます。そんな市場のひとつを訪ね、南の砂漠からやって来たと言うヒツジ売りの青年に1頭いくらかと聞いてみると、1万5000円から5万円まで、その種類によってかなり値段に開きがありました。ヒツジはどれも1才未満だそうです。買うかと聞かれたので、どうやって持っていくんだよと答えると、彼はおもむろに1台の車を指さしました。そこには、あばれるヒツジを自家用車のトランクにつめ込む人の姿がありました。なんか強引…。

アラビア語ではヒツジ・ヤギをまとめてガナムと呼びます。ハディース (預言者ムハンマドの言行録) の中で「ガナムはガニーマ (有益) である」と言われているとおり、イスラム教徒の生活の支えをなしてきました。毛・皮・肉・ミルクなどの利用のため、また犠牲祭での最善の供物として、生活や宗教信条において高い価値が認められています。しかしその反面、社会通念上、ヒツジ・ヤギの地位はかなり低いものとなっています。他人の犠牲者 (カブシュ=親雄羊)、理解力に欠ける男 (ハルーフ=雄子羊)、何事もあきらめた人間 (マアザ=雌ヤギ)、頑固者 (タイス=雄ヤギ) などに例えられていて、人間に役立っているわりには低いイメージができあがっているようです。確かに、真横で仲間が屠殺され、軒先につるされ、あげくバーベキューにされているにもかかわらず、たいして抗いもせずミカン箱に入れられ計量を待つ姿を見ると、なんだかこちらが歯がゆくなってしまいます。革命を起こそうというヒツジはいないのでしょうか。
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2006年8月23日 (水)

トイレの向き

ヨルダンのトイレには西洋式ももちろんありますが、ホテルなどを除けばオリエンタルスタイルの方が多いと思います。こちらでは水洗いが主ですから、どのトイレもほとんど紙は置いてありません。紙のかわりに水瓶が置いてあるところは大きな違いですが、見たところ、基本的な作りは和式そのものです。おそらく日本人ならほとんどの人が、和式風に奥を向いて座るのではないでしょうか。かくいう私もそのようにしてきました。ところがある日、これは入り口の方を向いて座るものだということを知りました。「今まで反対に座っていたよ」と言うと、ヨルダン人に大笑いされてしまいました。作りはほとんど同じなのに、なぜ座る向きが反対なのでしょう。シルクロードのどこかに、東西を分ける「奥向き/入り口向き」の分岐点があるのかもしれません。
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2006年8月21日 (月)

食事の作法

ヨルダン人の家に食事に呼ばれると、たいてい食卓にはものすごい量の食事が準備されています。どう考えても呼ばれた人数では食べきれない量です。日本人の場合、お皿に食事を適量取ってそれをきれいに平らげるという食べ方をするので、それがまた彼らのホスピタリティー精神に火をつけるようです。空のお皿を見ると「料理が口に合わないのか」と心配そうな顔をし、「すごくおいしい」と答えると「ならもっと食べてくれ」 …これの繰り返しです。慣れた人は、お皿に食べ物を少し残しておき、それをもって満腹の合図としているようですが、ご飯を残すということに罪悪感を感じる日本人としては、なかなかそれはできません。

逆に、現地の人を自宅に招待すると、なぜだかあまり長居をしてくれません。少し遅れてやって来て、食事をさっと済ませると、礼を言ってすぐに帰っていくということがほとんどです。彼らの家に呼ばれるとそれこそお腹がはち切れるほど食べる羽目になり、食事の後はお茶とコーヒーと甘いものが延々と続くので、そのギャップに悩んでしまいます。そこでコーランを紐解くと、このような一節がありました。「信仰する者よ、預言者の家に呼ばれても食事の準備が完了するまでは家の中に勝手に入ってはならない。だが呼ばれたときは入りなさい。食事が終わったならば立ち去りなさい。世間話に長座してはならない。こんなことが預言者に迷惑であっても、預言者はあなたがたを (退散させることを) 遠慮するであろう」 なるほど、こういう礼儀作法があったのですね。預言者も来客が多くて苦労していたということでしょうか。

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2006年8月19日 (土)

砂漠の城: アズラク城

アズラクはイラクとサウジアラビアへ通じる道の交差点にあり、3世紀頃のローマ時代には戦略上の重要拠点として要塞が建てられました。その後、ビザンチンやイスラム王朝が改修・改築を繰り返しました。黒い玄武岩で造られた建物は、見る者に異様な迫力を感じさせます。正面玄関の上の部屋は、かの 「アラビアのローレンス」 が滞在した部屋が残っています。1917年、「アラブの反乱」のための戦略基地としてここを利用していたそうです。その後の地域の歴史に大きな波紋を投げかけることになったアラブの反乱。その作戦会議が夜な夜な行われていたと考えると、感慨深いものがあります。
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砂漠の城: アムラ城

ハラナ城を越えてしばらく走ると、ハイウェイ沿いにぽつんと建っているアムラ城を見ることができます。ヨルダンのもうひとつの世界遺産であるペトラは息をのむ壮大さで見る者を圧倒しますが、それにくらべるとアムラ城は拍子抜けするほど小さな建物です。8世紀のウマイヤ朝時代に建てられたこの小さな離宮は、当時はさぞ多くのカリフや豪族を迎えたことでしょう。それが、今は周囲も砂漠と化し、その外観に昔日の面影はありません。しかし、内部に入るといきなり総天然色の別世界が広がります。裸身の女神、迫力ある狩猟シーン、神の使徒、当時の風俗などが壁一面に描かれ、極めつけはスチームバスの天井に広がる天球図です。アカデミックでなおかつ高い芸術性を感じました。
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砂漠の城: ハラナ城

アンマンから東にのびるアズラク行きの道を小1時間走ると、砂漠の城として知られるいくつかの城のひとつ、ハラナ城があります。外見の保存状態は一番良く、正面入り口あたりから眺めると、ドッシリとした立派な姿にほれぼれしてしまいます。1辺が35m。頑丈な要塞にも見えますが、実際にどのように使われていたのかは良くわかっていません。扉の上部にA.D.711と記されているためイスラム初期のものだと思われますが、ギリシャ文字が残っていることから、もともとはギリシャ・ローマ時代の遺跡の上に建てられたのではないかと言われています。入り口を入ると、イスラム建築に特徴的な中庭がある造りで、階段を上がり屋上に上ると、城全体と周囲の砂漠 (土漠) が見渡せます。
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2006年8月17日 (木)

サルト

アンマンから車で北西に40分ほど走ると、サルトの町に着きます。サルトはヨルダンで最も古い町のひとつに数えられます。オスマントルコ時代後期には商業と文化の中心として栄えました。町の中に残る黄色い石造りの建物は、多くがその時代 (1880年〜1920年) に建てられたものだそうです。これらはナブルス (ウエストバンク) の職人の手によるもので、アーチ型の装飾を施したバルコニーが目を引きます。なお、バルコニーをイスラム建築由来のものだとする書物もあります。オスマントルコ時代、女性が外から姿を見られないよう、格子のついた出窓を作ったのがその始まりなのだそうです。アラビア語では 「バルコーン」 と言います。

中東では、モスクや公共施設など人が多く集まる場所で、道ばたに置かれた素焼きのつぼを目にすることがあります。木の幹に縛ってあったり、金物の台座に乗せてあったりしますが、どのつぼも底の方からポタリポタリと水滴が落ちています。つぼのふたを開けると、中には飲み水が入っています。素焼きのつぼなのでゆっくりと水がしみ出し、そして空気が乾燥しているため気化熱でつぼが冷やされます。おかげで通行人は、炎天下でもひんやりとした水が飲めるわけです。異国情緒たっぷりで、またアラブの善意の象徴とも感じられる水がめですが、最近では電気冷水器に取って代わられているようです。衛生面を考えればそれも仕方のないことかもしれませんが、なんだか寂しい気持ちになることも事実です。サルトのような歴史ある片田舎 (失礼!!) では、まだまだ水がめが現役でした。
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アジュルーン

ジェラシュの西、いくつかの山を越えて走ると、十字軍縁の町アジュルーンに着きます。町を見下ろす小高い山の頂には、アジュルーン城が建っています。アジュルーン城は、1189年に十字軍を打破したサラーハッディーン (サラディン) の甥、イズ・アッディーンによって1184年に建てられました。典型的なイスラムの要塞建築で、保存状態も良好です。城の内部は階段と数多くの部屋があり、まるで迷路にいるような気分にさせてくれます。階段を上り屋上の部分に出ると、アジュルーンの町はもとより、北ヨルダン渓谷が一望できます。当時、アジュルーンはヨルダンとシリアの交易ルートを守る上で重要な砦のひとつであり、夜には通信手段のかがり火を焚き、ユーフラテスからカイロへの情報伝達の中継点の役割を果たしたそうです。
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ジェラシュ

アンマンから北に走ること45km、中東・北アフリカ地域に建設されたローマ都市としては最も壮麗と言われるジェラシュがあります。紀元前64年に、ダマスカス、ペラ、ウム・カイスなどの10都市からなるデカポリスに加えられました。1世紀になると、ローマ帝国はさらに南部のペトラやアカバまで勢力をのばします。そのため中継地点となったジェラシュは交易により繁栄し、劇場や神殿などが建てられ、人口は2万人を越えていたそうです。現在でもそれらの建造物は比較的きれいな状態で残っており、当時の栄華を容易に想像することができます。4世紀になるとローマ帝国がキリスト教を国教に定めたことにより、ジェラシュの神殿もキリスト教会に転用されました。その後はビザンチン帝国のもと、さらに300年の繁栄を見ましたが、614年にペルシャ軍が襲来、636年にはイスラム軍に完全に制圧されました。8世紀に大地震が起こり、建物の多くが崩壊、徐々に衰退に向かいました。12世紀に一時十字軍が駐留しましたが、その後は19世紀までほとんど忘れられた存在となっていました。

ジェラシュの入り口、大きな凱旋門をくぐり、教会と競技場を左手に見ながら300mほど歩くと、レストハウスと観光案内所があります。案内所の先には南門がありますが、この門は形の関係なのか、いつも風の通り道になっています。これといって日差しを遮るもののないジェラシュの遺跡ですが、太陽に焼かれてヘトヘトになって南門に戻ってくると、ここで涼しい風に吹かれてようやくほっと一息つくことができます。それにしてもローマ帝国というのは、やることが大きいですね。そして賢い。このように水道が完備された衛生的な町で、しかも劇場、闘技場、浴場など人々の娯楽施設も整っている。神殿は巨大で壮麗、ここまでやられたら、人々は「征服された」とは思わないのではないでしょうか。ローマの一都市になった誇りすら感じたかもしれません。3000人を収容できる南劇場はほぼ完全な状態で保存されており、毎年夏にアラブ人歌手のコンサートが開かれます。
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2006年8月16日 (水)

エクソシスト

エクソシストといえばあの有名な映画を思い出しますが、ヨルダンで、エクソシストの呪術的治療により命をおとした少女の話が新聞に載りました。ザルカに住む18才のマリヤムは、胃を患っていました。家族が地元の「シェイク (Witch Doctor=呪術師を尊称でこう呼ぶ)」のもとに彼女を運び込むと、患部に巣くうジンを追い出すためと、シェイクはお香を焚き彼女のお腹を何度も強く蹴りました。うめくマリヤムを見かねた家族はすぐに彼女を病院に連れて行きましたが、治療の甲斐なく絶命したそうです。ヨルダンでは毎年数人が同様の事故で命を落としているそうです。ザルカのシェイクの他にもヨルダンには有名なシェイハ (シェイクの女性形) がおり、病気の原因や遺失物の場所などを見事に言い当てるそうです。シェイクたちはジンの力を借りて不思議な力を発揮しますが、けっして未来の予知・予言はしません。未来を知ることはアッラーの怒りにふれるため、できないのだそうです。

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お香

職場で丁子入りのタバコを吹かしていたとき、1人のスタッフが部屋に入って来るなり 「誰かバホール (お香) を焚いているのか」 と心配そうに聞いてきました。ヨルダンでもお香は一般的ですが、何か悪いことがあった時、おそらくその原因であろう他人のねたみや嫉妬を追い払うという意味でお香を焚くことが多いため、どちらかといえば縁起の良いものではないのだそうです。そこで部屋に入ってきた彼も、私かあるいは隣のスタッフの身辺に何か悪いことが起きているのではないかと気遣ってくれたようなのです。「このタバコの匂いだよ」 と言いながら Gudang Garam を見せると、「毎日それを吸っていれば悪いことも起きないだろう」 というありがたい (?) 言葉を頂戴しました。イスラム教の成立によって、それ以前の迷信・俗信は根本的に否定されましたが、やはりなくならないものですね。

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ニアデス

ヨルダン人スタッフから聞いた話です。もう10年以上前の話ですが、彼が軍隊にいたとき、同僚の兄弟が亡くなったそうです。数日後、彼が同僚の家にお悔やみを言いに行ったところ、なぜか家の中の雰囲気がとてもにぎやかでした。事情を聞くと、遺体を墓地に運んでいる途中、車がガタンと強く揺れた瞬間、お棺の中で当人が息を吹き返したのだそうです。病院では心停止のため死亡と判断されたそうですが、単に仮死状態だったわけです。こんな風に死人が生き返った話はけっこうあるよ、と彼はさらりと言っていましたが、よく考えると怖いですね。イスラム教徒の場合、病院で死亡が確認されるとその日のうちか遅くとも翌日の昼には埋葬するそうです。埋葬直前に生き返った話があるなら、同じだけ、埋葬後に息を吹き返していることも考えられるわけで…。

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獣の数字

キリスト教世界では「666」は悪魔をあらわす不吉な数字とされています。日本でも、映画「オーメン」によって一躍有名になりました。ヨルダン滞在中、町でこの数字のナンバープレートを見かけました。やはりイスラム世界では関係ないのでしょうか。参考までに、ヨハネの黙示録・第13章の一節を記します。「私はまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには10本の角と7つの頭があった。それらの角には10の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。 (中略) すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は666である」
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2006年8月15日 (火)

ワディ・ラム

砂漠は今や重要な観光資源です。アカバからほど近いワディ・ラムは 「アラビアのロレンス」 の撮影が行われた場所としても有名で、ツーリスト受け入れ態勢は万全、気軽にアドベンチャー気分を楽しむことができます。私はジープ3時間コースに参加しました。入り口で代金を支払うと、早速現地の人が運転する車の荷台に乗り込みました。赤い砂丘が横たわる荒野をとばし、ロレンス縁の地や、あのペトラを造ったナバタイ人の痕跡などを訪れました。ギリシャやローマ時代には緑が生い茂っていたとも言われますが、今のワディ・ラムは荒涼とした砂漠地帯です。「月の砂漠」という異名をもつように、そそり立つ岩塊や真っ赤な砂漠を目の当たりにすると、段々と現実感が希薄になっていく感覚に陥ります。ひと通り回ったところでお茶をご馳走になりましたが、ほかに誰もいない荒野で、風と砂の音を聞きながらいただくお茶の味はまた格別でした。途中車がスタックしてしまい荷台から降りて一所懸命押したり、運転手のおじさんの薪拾いを手伝ったりと、盛りだくさんの3時間でした。
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灼熱のアカバ

ある夏の日、無性に海が見たくなりアカバに行くことにしました。アンマンが数年ぶりの熱波に襲われていたその時期に、何を好きこのんでアカバなんぞに行くのかと、出発前はヨルダン人にさんざん言われましたが、そんな忠告は軽く聞き流し、意気揚々とアンマンを車で出発しました。それまでの中東暮らしで、ヨルダンは初めてクーラーのない生活でした。自宅や職場に比べたら、車の中が唯一冷房の効いた快適空間です。長距離ドライブも苦にならないどころか、夕方アカバの海が見えてきた時は残念に思ったくらいです。車窓から見る港町のアカバはなんだか涼しげです。来て良かったと心から思いました。しかし、その後は驚くべき現実が待っていました。ホテルの駐車場に車を止めドアを開けた途端、いきなり熱風に襲われたのです。「なんだこれは!?」と一瞬たじろぎ思わずドアを閉じました。ひと呼吸置いてもう一度ドアを開けると、やはり熱々の突風が吹き荒れています。私は車を降りると、この熱風の中で大笑いしてしまいました。この熱さはもう冗談だとしか思えなかったのです。この日、アカバは夕方5時で51度ありました。恐るべしアカバ!!

ホテルにチェックインすると、クーラーの効いた室内でほっと一息つきながら、ベランダから見えるイスラエル領エイラトをまじまじと眺めました。アカバとエイラトはもちろん地続きです。しかし向こうはホテルっぽい建物もたくさんあるし、やけに電気が煌々とついていて何だかとても羽振りが良さそうな雰囲気です。この辺りが国力の差なのかなぁとため息がもれました。泊まっていたホテルも、週末だというのに全然お客がいなくて、ビーチは閑散としていました。
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2006年8月14日 (月)

ヨルダンのワイン

アンマンから北東に30分ほどの町、ザルカにあるワイナリー、Eagle Distilleries社は1957年創業、ヨルダンで唯一と言って良い酒造会社です。私が訪れた時はちょうどワインの仕込みがひと通り終わったところで、タンクのひとつは絞りたてのジュースで満たされていました。ブドウは在来種を含め4種を使用しています。白ブドウと違って赤ブドウはほとんど国内で生産されていないため、ウエストバンク (ヨルダン川西岸) から買い付けているそうです。若い娘さんがブドウを踏み、薄暗い地下室にワイン樽がゴロゴロ…、といった絵を想像して行ったのですが、ステンレスの大きなタンクが並ぶ、近代的な工場でした。ここではワインだけでなくアラクなどの蒸留酒類、それに付随的に発生する二酸化炭素から、ドライアイスまで作っていました。

工場の見学をした後、こちらで作っているワインを試飲させてもらいました。銘柄は4種、Chateau、St.Catherine、Mt.Nebo、Jordan Valleyで、それぞれ白、赤、ロゼがあります。試飲したのは1999年と2000年の白、赤ワインです。若いだけあって香りもさわやか、軽くさっぱりとした味で、とても飲みやすいと思いました。ワイン通に言わせればまだまだといった感じかもしれませんが、これはこれでおいしかったです。案内してくれた方はフランス人技術者の研修を2年間受けたそうで、テイスティングと品質管理を担当しています。どうしても気になって聞いたところ、やはりクリスチャンでした。ムスリムはお酒禁止ですからね。
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2006年8月13日 (日)

ジハード (聖戦)

一般的に、宗教とは心の平安や暴力の放棄を説いたものであるという認識が強いと思います。これはキリスト教の「右の頬を打たれたら…」という一節や、殺生を禁じた仏教思想によるものでしょう。しかし、イスラム教についてはご存じの通り「ジハード」という言葉もあります。コーラン雌牛章第190、191節には「あなたがたに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦いなさい。だが侵略的であってはならない。本当にアッラーは侵略者を愛さない。彼らに会えば、どこでもこれを殺しなさい。あなたがたを追放したところから、かれらを追放しなさい。本当に迫害は殺害よりもっと悪い。だが聖なるモスクの近くでは、彼らが戦わない限り戦ってはならない。もし戦うならばこれを殺しなさい。これは不信心者への応報である」と記されています。これを読むと、パレスチナ問題の政治的解決などあり得ないのではないかと感じます。イスラム原理主義者に言わせれば、現在の世の中はダール・アルハルブ (争いの世界) であり、イスラムの主権が確立されたダール・アルイスラーム (イスラム世界) になるまで、ジハード (聖戦) が必要なのだそうです。これには、直接戦闘員 (ムジャーヒディーン) としての参加だけでなく、資金や物資の提供など様々な形での参加があります。ジハードでの戦死者は、シャヒード (殉教者) として天国行きが約束されているそうです。

アラビア語は、基本的にアルファベット3つからなる動詞が変化して、関連した別の意味の動詞や名詞になります。シーン、ハー、ダールの3語根でシャヒダ (目撃する、証言する、証明する) という動詞になり、そこからシャハーダ (証明書、証言、証拠、殉教、信仰の告白) という名詞ができます。証人はシャーヒド、殉教者はシャヒード、また殉教するという動詞はシャヒダの第10形受動態 (ウストゥシュヒダ) といった具合です。証明書と殉教が同じ単語だと言われても日本人にはなかなかぴんと来ませんが、つまりどちらも神に誓って行われる行為であり、根底には信仰があるということなのでしょう。しかし殉教することが自らの信仰を証明する最善の方法であるとするならば、あまりに悲しいのではないでしょうか。

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天国で会いましょう

職場でパソコンの画面をにらんでいたとき、ある年配のスタッフがひょっこり顔を出しました。曰く「あなたはいつも難しい顔をしていて見るに耐えない、1時間働いたら10分休憩しなくてはいけない、ついては、私の話を聞いてはくれまいか」とのこと。どうも彼は、イスラムのことを話したいようです。「あなたはいい人だ。私の話をわかってくれると思う。最後の審判の時に、あいつは同じ職場にいたのにイスラムのことを何も教えてくれなかった、なんてことを言わないでほしいんだよ。あいつはイスラムを教えてくれた、いい奴だったと証言してほしいんだ。そうしたらまた天国で会えるからさ」。その後、少しイスラムの話が続きました。彼の顔は真剣でした。真剣な割には動機が不純なような気もしますが。

コーランにはこの世の終末が生々しく描写されています。本来、人間はすべてイスラム教徒であり、最後の審判の日、人類は1人残らず墓からあばき出され、生前の信仰や行為によって天国行きあるいは地獄行きを宣告されるそうです。そのため火葬は厳禁。お墓に土葬され、じっと最後の審判を待つわけです。地元の人のお葬式に行ったときは、この復活思想も手伝ってかとてもさっぱりしたある意味和やかな雰囲気さえ漂っていました。死は終わりではなく単なる通過地点なのでしょうか。ただ、実際のところみんながどこまで本気で信じているのかやや疑問に感じたので、何人かにたずねてみました。すると「コーランに書かれているからそうなんだ」「みんな信じているからたぶんそうだろう」「よくわからないがウソだとは誰も言えない」などと、肯定的とは言わないまでも、否定的な意見はありませんでした。なお、コーランの中では天国 (ジャンナ) について「こんこんと湧き出る泉のほとり、緑したたる木陰でうるわしい乙女にかしずかれ、おいしい食べ物やお酒を存分に味わい、そして神の姿を見る」と記されています。これを文字通りに解釈する人と、比喩表現ととらえる人と、様々な立場があるそうです。いずれにしても、なんとなく「男性天国」といった趣があるような…。

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9.11アメリカ同時多発テロ

2001年9月11日、私は仕事帰りにスーパーで買い物をしていました。時間は午後4時前。突然携帯電話が鳴り「アメリカでビルに飛行機が突っ込んだよ」と職場のスタッフが知らせてくれました。しかしその時はすっかり軽飛行機が事故でも起こしたのかと思っていて、家に戻ったのはそれから15分ほどしてからでした。ヨルダンと日本は時差が6時間あります。NHKのニュース10を見ようと思ってテレビをつけると、そこには信じられない光景が映し出されていました。もちろん、全世界の誰もが目を疑ったと思います。ジャンボ機が突っ込み炎上するワールドトレードセンター。私はもう画面に釘付けです。深夜まで、ずっとライブ映像に見入っていました。その翌日、職場はこの話題で持ちきりでした。みんな異様に興奮しています。職場のスタッフの多くは、数次にわたる中東戦争の結果、パレスチナという郷土を追われ命からがら逃げ出した人たち、あるいはその2世です。彼らがイスラエルとその支援国であるアメリカに抱く感情は、われわれの想像を超えた根深いものがあります。この凄惨なテロに対し、歓声をあげる人が少なくなかったのは事実です。困ったことに、現地紙に「赤軍の犯行」という記事が載ったため、スタッフがひっきりなしに部屋に入ってきて「赤軍は良くやった、日本人はアラブの友達だ」などと言っては握手を求められました。こちらは否定するのに必死でした。

その翌日も、テロの犯行グループについてほとんど情報がなかったため、職場でも朝からやれ赤軍だ、いやアメリカ人の内部グループだなどと皆大声で話をしていましたが、しだいにアラブ系の容疑者が特定されてくると、不思議なもので誰もその話題を口にしなくなりました。昨日は興奮のあまりテロを礼賛するかのような発言も聞かれましたが、やはり誰もが「いくら何でもやりすぎだ」と思っていたのでしょう。同胞の犯行ということに、少なからずショックを受けていたようです。彼らの良心を見たような気がしました。

ちなみに、エチオピアは独自のカレンダーを採用していて (ユリウス暦)、新年が9月11日です。通常ならワールドトレードセンターで働いているはずのエチオピア人が、この日はみんな休みをとっていて誰ひとりとしてオフィスにいなかったため、アメリカ治安当局は当初エチオピア人の犯行を疑ったそうです。

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ペトラ雑感

入り口で入場チケットを買い、しばらく砂利道を歩くと、ほどなく見上げるほどの断崖が現れます。そこには5〜6mの岩の裂け目があり、その亀裂はそのまま細い道 (シーク) となって1.5kmほど続いています。ここは脇の岩に水の流れる側溝が彫ってあるなど、当時の高い技術水準がうかがえます。それにしても圧倒的な岩のボリューム感です。道が細い上に曲がりくねっているため見通しが悪く、前後に人影が見えなくなったりすると、不安を感じると同時に冒険心をかき立ててくれます。この行程は馬車あるいは馬をチャーターすることもできて、私は1度、馬車に乗りました。たまたまなのか、私の乗った馬車がとにかくよくフンをする馬で、シッポを上に上げたなと思ったらいきなりモリモリッとフンが顔を出します。顔のすぐ前で何度も何度もフンをされるのにはちょっとまいりました。もっとも、においは青臭いのと生臭いのがまじったような感じで、「出てくる」と思ったらちょっとの間だけ鼻をつまめばなんとかやりすごせました。問題はそのビジュアルでしょうか。詳しくは書きませんが…。一度「シッポを上げた、来るぞ!!」と思ったらすかしっ屁というのもありました。これには1本とられた!!。そんなわけで、ペトラの一番強烈な思い出はこの馬のすかしっ屁、…ということはまったくなくて、やはり「エルハズネ (ファラオの宝物殿)」です。巨大な岩の壁に彫られた、大胆にして繊細な外観。太陽の動きとともに刻一刻とその色を変化させる自然の妙。1日に50色ものバラ色を見せると言われますが、もしこれがナバタイ人の「計算」だったとしたら、その芸術センスに脱帽です。確かに、シークを抜け出て最初に目に飛び込んでくるエルハズネと、ペトラの内部の遺跡を見終わった後、数時間後にあらためて見るエルハズネでは、その色が全然違います。もちろんどちらも美しいのは言うまでもありません。

エルハズネの他にも、王家の墓、宮殿の墓、ローマ劇場、ローマ風列柱通りなどが訪れる者の目を飽きさせません。元気があれば、もうひとふんばりして奥の岩山を登り、デイル (Ed Deir) まで足を延ばしてみてはいかがでしょうか。私もぜいぜい言いながらなんとかたどりつき、山の上の涼しげな風に吹かれながら、その静かで重厚なたたずまいに心を打たれました。ちなみにデイルまではロバをチャーターできますが、上り坂は時に階段状、時に単なる岩の斜面ということもあり、ロバのひづめではズルズルすべってずいぶん危なっかしいです。足を滑らせたら何十メートルも下の谷底へ落下、という悲劇が待っていますので、ロバはあまりおすすめできません。ペトラから一番近い村がアイン・ムーサです。「モーゼの泉」という名を持つ通り、昔ここでモーゼが岩を杖で打ち水を湧き出させたという伝説が残っています。私はペトラの帰りに泉に立ち寄りました。写真の建物内部に水が流れています。(写真:デイル、側溝+劇場+列柱通り+デイルへの道、アイン・ムーサ)
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ペトラの歴史

ペトラ周辺では、約9000年前の新石器時代にはすでに人の集落があった痕跡がありますが、歴史上、この地域の支配者として最初の名を記すのはエドム人です。エドム国は、紀元前1000年頃にはユダヤのダビデ王と争っていたことがわかっています。紀元前500年頃になると、ナバタイ人がこの地に定住をはじめました。この地を通る隊商の安全を保障する代わりに、税を徴収していたそうです。しかしそれから100年ほどすると、マケドニア帝国から分裂したセレウコス朝の襲撃を受け、大きな被害を受けました。紀元前63年にはローマ帝国が派兵、紀元前31年にはユダヤのヘロデ王の攻撃により多くの領土を失いました。西暦106年にはローマ帝国に併合され、そのためペトラには従来のヘレニズム様式とローマ様式両方の建築が残されています。約250年に渡るローマ支配の後、363年におきた大地震によって、ペトラは壊滅的な打撃を受けました。しだいにペトラは人が住まぬようになり、7世紀のイスラム来襲、12世紀の十字軍遠征でわずかにその名を登場させましたが、以降はまったく外界から忘れられた存在となりました。再び世界にその名を知られるようになるのは、1812年のことです。スイス人探検家ヨハン・ルートビッヒが、よそ者を嫌う現地人の目をかいくぐって内部に潜入、世界にその存在を伝えたのでした。(写真:シークを抜け出て姿を現したエルハズネ/ファラオの宝物殿、高さ30mのエルハズネ正面、ペトラ一帯に見られるバラ色の岩)
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2006年8月12日 (土)

王の道4:ショーバック

タフィーラからさらに南に60km。ショーバックの村のすぐ近くには十字軍の城塞が残っていて、城の内部では教会、浴場跡、貯水池、井戸、脱出用の抜け穴などが見られます。壁の一部にはサラディンの碑文も残っており、小高い丘の上にたつ姿の美しさもあって、キングスハイウェイのひとつのハイライトになっています。実はここに、知る人ぞ知る有名な骨董品屋があります。城を見学に来た人なら、その入り口手前にある小屋に気付くでしょう。そこで1人のおじいさんが品物を並べ商売をしています。おじいさんは雑然と並べられた古銭やガラス玉、はては化石からやじりまであれこれと指さしながら、「これは石器時代、これはユダヤ、こいつがビザンツでそいつは十字軍だ」などと一品一品ていねいに説明をしてくれます。話を聞いているだけでロマンをかき立てられるではありませんか。中でも私の目を引いたのは、様々な時代の石・ガラスが束ねられたネックレスでした。おじいさんの説明によれば、そのネックレス (ナイロン糸に通してあるだけですが) にはナバティア、フェニキア、ローマ、イスラムの各時代の石やガラス玉がつけられていて、おじいさんが10年以上かけてこつこつ拾い集めたものだそうです。ショーバックには歴史的に十字軍など外国人が多数訪れ、地域の交通の要所となっていましたから、周辺の砂漠にはこういったお宝がそれなりに落ちているのだそうです。「残りの人生ではもうこれだけ良い物は集められないだろうな」とおじいさんはどこか寂しげな目でネックレスを見ていました。「だから高く買ってね」という感じで交渉が始まりましたが、「100ディナール (18,000円)」と聞いた時はちょっと気持ちがぐらついてしまいました。「職場のスタッフの月給より高いじゃないか」と思い、一旦はネックレスをおじいさんに返したのですが、ここで買わなかったらもう一生出会えないだろうという思いもあって、ネックレスに加えて指輪、印章、古銭をいくつか選び、なんとかまとめて100に値切ることができました (自分では値切ったつもりですが、見る人が見たら「ケッ!!」とか言われそう…)。私にとって、ヨルダン最大のお土産が手に入った瞬間でした。ショーバックでもうだいぶ日が傾いていましたが、この日はさらにペトラまで足をのばしました。
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王の道3:タフィーラ

カラクからワーディ・ハサを越えると1時間半ほどでタフィーラに着きます。アンマンを朝出れば、ちょうどお昼になっている頃でしょう。私もここで昼食をとることにしました。眼下に広がる渓谷を眺めながらの食事はなかなかおつなものです。メニューはシシカバブくらいしかありませんが、これだけ景色が良いのですから、それ以上注文をつけるのは贅沢というものです。さて、雄大な自然を残し、ヨルダンの秘境とも言われるタフィーラ。このタフィーラ出身者のことをタフィーリーと言い、古い伝統文化を保ちホスピタリティーにあふれる人々であることには定評があります。その反面、のんびりとした穏やかな性格から、いつも冗談の対象になってしまうのも事実です。以前、職場の校長がタフィーラで道を聞き、ついでに職業訓練校の校長であることを自己紹介すると、「ロードエンジニア」になるにはどうしたらよいかと聞かれたそうです。シビルエンジニアのことかと聞くと「ほら、道路で旗を持って車に止まれとか進めとかさ、ああいうエンジニアがいいなぁ」 …これを聞いて校長もさすがに目が点になったそうです。エンジニアって…。

タフィーラの町を過ぎると、ダーナ村に行き当たります。絵葉書にもなっている有名な村で、切り立ったがけの上に、日干し煉瓦と泥で固めたような家がへばりつくように密集しています。村に足を踏み入れると、一瞬、中世にタイムスリップしたような感覚に陥ります。もっとも、家畜 (もしかして人?) の糞尿のにおいですぐに正気に戻るのですが…。とにかく、観光資源としては希有の存在だと思います。政府もそのあたりは力を入れているらしく、村に隣接して立派な宿泊施設があります。そこのテラスから見下ろす深い渓谷には圧倒的な自然の力を感じました。旅行者にとっては貴重な観光スポットですが、こうなると村人も勝手に村を捨てるわけにも行かず、家をトタン屋根やレンガ造りに改造するわけにもいかず、実際はけっこうな苦労があるんだろうと想像してしまいます。もし自分がこの村に生まれたらどんな人生だっただろうかと、少し考え込んでしまいました。
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王の道2:カラク

カラクは海抜1000mの高台に十字軍の城塞が残る町です。エジプト~シリア間の隊商路にあり、もともと宿場町として栄えていたそうです。12世紀には、ショーバックとエルサレムの間の軍事拠点として十字軍が城を築きますが、後にアイユーブ朝 (エジプト) のサラディン (サラーハッディーン) に征服されました。城の規模はヨルダン随一で、数百頭の馬を飼っていたと言われる円天井のホールなど、見応え充分です。眼下には城下町が一望でき、城塞はその土地で一番高い場所に築くというセオリーがよくわかります。カラクの城を見学し終わった頃、突然猛烈にトイレに行きたくなりました。あわてて城を出て、隣接している町の中をウロウロ歩きながらトイレを探したのですが、これがまた全然見つかりません。いきなり民家に入るほどの勇気はありませんでしたから、とにかく郵便局とか銀行とか人が集まりそうな施設を探すことにしました (週末なので結局全部閉まっていましたが)。さらに10分ほど歩き回り、もうそろそろ限界かと思ったその時、目の前に消防車が止まっているのが見えました。消防署です。車庫の中にいたスタッフに事情を話すと、快くトイレに案内してくれ、ようやく落ち着くことができました。お礼を言いながら「この町はトイレがないねぇ」とスタッフに話しかけてみると、どうやらこの辺りはかなり深刻な水不足で、さらに下水道パイプラインも今は使えない、といったようなことを言っていました (今いちよくわからなかった)。ここは城が築かれた高台ですから、悪く言えば下界とは隔絶されたとてもへんぴな場所ということです。ここに住んでいる人たちは町の歴史に誇りを感じているようでしたが、現代的な生活として考えると、やはり不便なことは否めません。
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王の道1:ワーディ・ムージブ

アンマンからアカバに南下する道は3通りあります。死海沿いの西側ルート、デザートハイウェイと呼ばれる東側ルート、そして歴史のある中央ルート、その名もキングスハイウェイです。ハイウェイと言っても山あり谷ありの細い道で、時には羊の群れが道を横断するなど、むしろ街道と言った方が適当でしょう。アンマンを出てマダバの町を過ぎると、最初の難関、ワーディ・ムージブ(ムージブ渓谷)が立ちはだかります。1000m級の渓谷を見下ろすパノラミックな風景は、壮観のひと言です。展望台にはお土産物屋さんがあって、民芸品の他に谷底から拾ってきたという化石がたくさん売られています。太陽はギラギラとまぶしいのですが、谷を渡る強い風には冷たさを感じます。展望台でひと息入れたら、いよいよ下りです。右手に谷を見下ろしながらのドライブに否応なく気分は高揚しますが、ガードレールもないような道で、少しでもハンドルを誤ればあっという間に谷底に落下してしまうことを考えると、少々緊張しながら走りました。谷底には水がほとんど流れていない川があり、そこでダム工事をしていました。こんな川でも冬の間に雨が降れば、それなりの流れになるのでしょう。橋を越えたら、今度は同じだけ上らねばなりません。上りの道は急坂でずっと砂利道、車のエンジンが悲鳴をあげっぱなしでした。ワーディ・ムージブを抜けると、カラクまで穏やかな道が続きます。この時は春だったので、ポピーや菜の花が目を楽しませてくれました。視界の先にはどこまでも小麦畑が広がり、大地が黄金色に輝いていました。
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2006年8月11日 (金)

歯医者にて

ヨルダンで歯の詰め物がとれてしまったときのこと、早速近所の歯医者に出かけました。診療室にはパソコンがあり、小型カメラを使って口の中の画像が映し出されました。さらにこれから行われる処置について簡単なアニメーションも流れました。こんな歯医者、日本でも行ったことありません。感心することしきりです。麻酔注射の前に、麻酔をしみこませた脱脂綿を噛むよう言われました。「これでチクリともしないよ」 ドクターは自信ありげです。そしていよいよ注射のとき、ドクターは急に何か思い出したらしく、看護婦さんに向かって「あれはどうなってる?」と聞きました。一瞬目をそらしたドクターの手は、ゆっくりと私の頬を直撃しました。歯の治療は全く痛くありませんでしたが、私の頬はしばらくの間しびれていました。

いわゆる途上国で生活していると、歯医者はもっとも頭の痛い問題です。どの国でも基本は抜歯。詰め物をする時でも相当余分に削り取られてしまいます。サウジアラビア赴任早々、レストランでフランスパンをかじっていた時に、あまりに堅いパンだったため、前の方の歯が1本、大きくグラリと傾いてしまいました。激痛と同時に「ヤバイ」と思って歯の位置をグッと押し戻したのですが、その日の夜からその部分の歯茎が大きな血の塊のようなものでプックリとふくれてきました。ジンジンと痛みもひどくなっています。仕方なく、翌日近所の歯医者に行きました。女医さんで、国籍はフィリピンです。歯を見せると「Oh!!」とひと声あげ、女医さんは「抜きましょう」と速攻できり出してきました。私も反論のしようがなく、あとはペンチでゴリゴリと抜かれるのをただ甘んじて受けるしかありませんでした。

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2006年8月10日 (木)

カナリヤ

ヨルダン人は鳥の愛好家が多いようです。ダウンタウンでは週末になるとある通りに鳥市が立ちます。私も、鳥市で見たカナリヤの鳴き声にみせられ、生まれて初めてカナリヤを買うことにしました。どこで買おうか迷いましたが、鳥かごやエサも買わなければならないので、鳥市の近くにあったペットショップに行きました。店内には何羽か、すでにきれいな鳴き声を発しているものもいましたが、店主に相談しながら、あえて若いカナリヤを選び、じっくり育てようと考えました。「3週間くらいで鳴き始める」という店主の言葉を信じ、それからはカナリヤの世話にいそしむ毎日が続きました。「早く鳴かないかなぁ」とワクワクしながら1ヶ月たちましたが、時々「ピョロヒ~」と短く良い声で鳴くものの、ほとんどは「ギャッ」という鳴き声しか発しませんでした。その時は「隣のケージにいるブンチョウ (一緒に買った) のつがいをうらやましく思って鳴き声をまねしているのかな」程度に考えていました。そうこうしているうちに、事情があってカナリヤはブンチョウとともに知人のお宅に引っ越すことになりました。しかし10日ほどたって知人から「カナリヤが卵を産んだ」という衝撃的な連絡を受けたのです。く〜、あれだけオスって言ったのに。そりゃ鳴かないよ…。ちなみに、鳥市では鳥だけでなく犬やハリネズミも売っています。それと、鳥を売っている横で焼き鳥の屋台がおいしそうな煙を上げているのはどうかと思いました。
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日本のアニメ

ある年の春、ヨルダンで放映されていた「ポケモン」が、イスラム教に反する内容だということで宗教界から猛反発を食らいました。ポケモンの名前がアッラーを冒涜しているとか、「ピカチュー」が「Pick a Jew (ユダヤ人を選べ)」に聞こえるとか、諸々のことが書かれた怪文書が小学校で配られ、イスラム各国でポケモン禁止令が出されました。その頃はポケモンを見続けて勉強をしなくなる子供が増え、社会問題にまで発展しそうな勢いだったので、どこかの誰かが対抗措置をとったのかもしれません。私も子供の頃「マンガばっかり見るな」とよく怒られました。しかし日本のアニメは連日放映されており、ちびまるこちゃん、キャプテン翼、ムーミン、グレンダイザーなど数え上げたらきりがありません。ヨルダンTVで「ど根性ガエル」を見たときは、あまりの懐かしさに思わず目頭が熱くなってしまいました。しかしぴょん吉とゴリライモがアラビア語でケンカしているのは軽い衝撃でした。

ちなみに、サウジアラビアにいた時、日本のあるゴムメーカーが売り込みをかけたタイヤの泥よけの模様が「アッラー」に見えたため、それはけしからんといって販売禁止になりました。ヨーロッパを震撼させたムハンマドの風刺画騒動も記憶に新しいところですが、イスラム教徒はこういうことにものすごく敏感です。とにかくシャレになりませんから、怒られたら素直に謝りましょう。

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2006年8月 9日 (水)

イスラム教徒の離婚

イスラム社会における離婚は、男性側に生ずる義務の大きさもあって、普通考えられているほど簡単なものではありません。結婚する時にも多額のマフルを支払いますが、もし離婚をすると男性はかなりの慰謝料を支払うことになります。女性は離婚後4ヶ月は再婚ができないので (妊娠していないかどうかの確認期間) その間の女性の生活費を、そして将来にわたって子供の養育費を支払わねばなりません。多くの場合、離婚宣言は男性から一方的にされるそうですが、コーランでは、3回目の離婚宣言をするまでは正式な離婚にはならないとされています。つまり、1度や2度、かっとなって離婚を口走ったとしても、もう少し冷静になって考え直せということらしいのです。イスラム以前は、男性から女性に対し「お前の背中は私の母さんの背中だ」というきつい一言 (離婚宣言) があったそうですが、イスラム時代になってこれは禁句となりました。うっかりこれを言ってしまったら、それを取り消すためには2ヶ月の断食と貧者60人に食事を振る舞わなければならないそうです。

ある日、ヨルダン人の家に招待されました。食事をいただいた後にくつろいでいると、隣家のご主人がやって来ました。なかなか恰幅の良い人で、トーブという湾岸諸国特有の服を着ています。日本人を生で見るのは初めてとのことで、丁寧なあいさつをしてくれました。聞けば軍隊の将校として、クウェートをはじめ湾岸諸国に30年住んでいたそうです。そしてなんと、これまでに7人の女性と結婚したのだそうです。離婚や死別もあって、今は2人の奥さん、5人の子供と暮らしていますが、それぞれに家を建て、悠々自適の生活です。アラブ各国の女性と結婚しましたが、生活習慣などヨルダンと違う部分も多く、それが離婚の原因になったこともあったそうです。特に5人目のシリア人の奥さんの場合、突然の来客をとても嫌い、そこがヨルダン人の彼とはもっとも相容れない部分だったそうです。結果、6人目、7人目の奥さんは地元ヨルダンとパレスチナから娶ったそうです。

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イスラム教徒の結婚

ある年、職場で立て続けに2名が婚約をしました。そこで、かねてから疑問に思っていたことをいくつかたずねてみました。まずはマフル (結納金品) について。他のアラブ諸国と同じように、ヨルダンでも結婚するとき男性から女性にマフルが渡されます。マフルは結婚式の席で渡すものと、その後の人生の中で渡していくものに分けられます。現金、宝飾品、生活用品、土地や家の所有権などさまざまなものが考えられますが、ファミリーの格式や花嫁の学歴などによって、マフルの金額や内容は千差万別です (女性の美しさも大いに関係あるとか)。結婚式には裁判所から結婚登録人が出席し、花嫁、花婿、両家の父親 (保証人) とともに、マフルが記された書面にサインをします。この書面には法的な拘束力があるので、結婚とはまさに契約なのだそうです。特筆すべきは、離婚の際の慰謝料が、結婚の時点ですでに決められていることです。男性から離婚を申し立てた場合、女性側に額面通りのものを渡されなければなりません。そのため、離婚を防ごうと莫大な金額を書き込む花嫁の父もいます。もちろん花嫁にそれだけの価値 (←嫌な言い方ですね) がある場合ですが。スタッフの1人から「うちの妹のは慰謝料に純金3キロだよ」と聞いたときは、思わず相手の花婿さんに同情してしまいました。結婚する当人にマフルはいくらかとたずねたら、そこはどうしても言ってくれませんでした。あまりたくさん出せないので、世間体が気になるといったところでしょうか。

結婚後の夫婦の姓については、特にファミリーネームの変更はないとのことでした。パスポート上でも、ヨルダン人の女性は結婚しても氏名は変わりません。ファミリーネームもそのままです。自分の名、父親の名、ファミリーネームの順番で記されます。ただし、パスポートの中に「Wife of Mr.XXX」と付記されるそうです。なお、生まれた子供は必ず父親のファミリーネームを名乗ります。日本では夫婦どちらかが変更しなければならないと言うと「ファミリーネームをなんで捨てられるんだ」と不思議がられてしまいました。言われてみれば確かにそうですよね。また、ヨルダン内務省は、男子が結婚すると「家族手帳」を発給します。色はブルーですが、形やサイズはパスポートそっくりです。まず夫のページがあり、続いて妻、子供のページがあります。夫と妻のページには顔写真も入っています。これは子供のパスポート申請や、遺産分与の時に使うそうです。ちなみに、以前の手帳には妻のページが4人分あったそうですが、現在は1人分しかありません。相当懐に余裕がないと複数の妻帯は難しいですし、昨今は社会的にも一夫多妻に対する批判がよく聞かれますので、そのあたりの事情を考慮して、妻のページ数が減ったのかもしれません。

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一夫多妻

ヒジュラ暦3年 (西暦624年)、前年の雪辱を果たすべく、マッカ側は3000人の兵を率いてマディーナの預言者ムハンマドとムスリム軍に攻め入りました。この時、ムスリム軍は700人の兵のうち74名の戦死者をだす結果となりました。このオホドの戦役後、預言者に下されたのが「婦人章 (スーラトゥ・アンニサーア)」です。第3、4節には「あなたがたがもし孤児の女たちに対し公正にしてやれそうにもないならば、あなたがたが良いと思う2人、3人または4人の女をめとれ。だが公平にしてやれそうにもないならば、ただ1人だけめとるか、またはあなたがたの右手が所有する者 (奴隷の女) で我慢しておきなさい。そして結婚に際しては女にマフルを贈り物として与えなさい」と記されています。これが良く知られるイスラムの一夫多妻システムの元になった啓示です。これにより、当時多くの孤児と寡婦が救済されたと言います。しかし、一夫多妻は夫側にかなりの金銭的負担がかかりますので、少なくとも現代イスラム社会では、王族や豪商をのぞいて、それほど一般的とは言えないようです。

またコーランには、異教徒との結婚についても記されています。男性イスラム教徒は、同じ啓典の民であるキリスト教徒及びユダヤ教徒の女性とは結婚できます。それ以外の、特に多神教徒との結婚は許されません。男性がイスラム以外に改宗することは許されませんから、その女性は、イスラムかクリスチャンに改宗する必要があります。では、女性イスラム教徒の場合はというと、これはもうイスラム教徒の男性と結婚する以外ありません。したがって、イスラム教徒の女性と結婚を望む男性は、イスラムに改宗しなければならないのです。このことについて知人のヨルダン人女性は、イスラムでは必ずしも男女が平等ではないと言います。ただし、彼女はそれを嘆くわけでもなく、淡々と受け止めているようでした。

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2006年8月 8日 (火)

パレスチナ人は故郷に帰るのか

パレスチナ問題解決の糸口が見えないまますでに60年が過ぎ、ヨルダンで60%以上を占めると言われるパレスチナ系の人たちも4世代目に入っています。もちろん彼らの国籍はヨルダンで、パレスチナ人という意識はあるものの、パレスチナという土地に対しては漠然とした感慨があるだけという人も多いようです。特にビジネスで成功した人などは、仮にパレスチナが独立を果たしたとしても、ヨルダンに残るのが大半だろうと聞きます。確かに60年前の自分の土地がそのまま残っているわけもなく、それを証明することは難しく混乱は必至であり、独立が新たな争いの始まりともなりかねません。「その日」が訪れたとしても、はたしてどれほどの人が帰還するのだろうとやや懐疑的に思っていました。

しかし、あるパレスチナ系ヨルダン人の家に呼ばれたときのことです。こちらの人は親戚が多く、その日もいろいろな人が集まっていました。その中で一番年輩の男性が、出身村の土地台帳 (地図) を持っているということで、少し話を聞きました。「わしはイギリス軍の施設で働いていたんだ。1950年にイスラエル軍に村を追われてな。帰れば20ドヌム (2万平米弱) の土地があるんだ。オレンジ、ブドウ、オリーブ、何でもあったよ」。そう言う彼は息子さんの方を見ました。息子さんは少し照れながら言います。「私は小さい頃から父の話を聞いて育ちました。今では私が息子たちに話して聞かせています。これはずっと伝えていかなければならない話なんです」。アンマンで家具屋を営むという彼は、すでにこちらで財をなし、家も建てているそうです。それでもパレスチナ独立の際には帰るのですかと聞くと、「それが祖国のため (サビール・ワタニー) です」と静かに、力強く答えました。

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2006年8月 7日 (月)

アラブ人女性の人権

2001年11月、ヨルダン人権擁護委員会は民事上の女性の権利に関する提言をまとめ、首相府に提出しました。特に、女性の離婚に関する権利については、大幅な改善を要求しました。シャリーア (イスラム法) では、夫が離婚を希望する場合、妻にその意志を伝えるか、離婚証明書を妻に郵送すれば離婚が成立する一方で、妻が離婚を希望しても、3年から4年の裁判が必要で、かつ離婚が成立しないケースもたくさんあります。今回の提言では、慰謝料を支払うことによって、妻も離婚する権利を得ることを求めています。その他には、結婚年齢を現在の女性15才、男性16才から、双方とも18才に引き上げるよう提言しています。しかしこの点は、各州知事にある程度裁量権をもたせることで、女性が乱暴されその犯人と結婚せざるを得なくなる状況にも対処できるよう配慮されています。また、男性が2人目の妻をめとる場合に、夫は事前に1人目の妻に知らせること、そして2人目の妻にはすでに1人妻がいることを伝えなければならないことなども盛り込まれています。同委員会によれば、これらの提言はすべてイスラム法にのっとって作成されたとのことです。

中東では、夫が妻の不倫現場を見てしまった場合、その場で妻を殺害してもある意味当然であると受け止められる風潮があります。これを「Honour Crime (一族の名誉を守るための犯罪)」と呼び、ヨルダンの場合は刑法340条、そしてそれを補足すると解釈できる97、98条によって、このようなケースは夫側に禁固6ヶ月以上1年未満が科せられることになっています。ヨルダン人権擁護委員会は、年間20から25名の女性が Honour Crime によって殺害され、ほとんどの場合夫には禁固6ヶ月が言い渡されている現状を憂慮し、その是正案を議会に提出しました。是正案の中では、殺人犯である夫の禁固刑を5年以上7年未満に引き上げること、そして刑法340条を男性だけでなく女性にも適用することを要求しています。以前にもこのような改善策が議会に提言されましたが、当時の内閣が全員男性だったこともあってか、「イスラム社会の女性のモラルを破壊しようとする西側とシオニストの陰謀だ」と一蹴されたそうです。

2002年5月、ヨルダンの新聞に載った記事です。バルカ地区警察は Honour Crime により、24歳のマルヤムという女性が殺されたことを発表しました。加害者はマルヤムの兄です。兄の申し立てによれば、マルヤムは夫が仕事のため毎週何日か家を空ける際、妹に男性との情事の場として部屋を使わせていたそうです。妹の妊娠によって家族がこの事実に気がつき「Family Honour (家族の名誉)」のため、兄がマルヤムを殺害するに至りました。妹は現在女性刑務所に収監されていますが、これも彼女の身を守るためだそうです。同種の犯罪では、この年マルヤムはヨルダンで5人目の犠牲者となってしまいました。

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2006年8月 6日 (日)

ウムラサス

ウムラサスはヨルダン中部にある小さな村です。村の一角にウマイヤ朝時代の遺跡がありますが、もうほとんど廃墟と化していますから、これを目当てに訪れる観光客はいません。ただ、その横には8世紀に作られた聖ステファノ教会があり、内部のモザイクの美しさから、ヨーロッパのクリスチャンの間ではつとに有名です。残念ながら日本ではまだ知る人ぞ知るといった観光地です。教会内部のモザイクには説明書きが少ないのであれこれ想像するしかありませんが (ヨーロッパのガイドブックにはけっこう説明が書いてあるらしい)、当時のエルサレムとそれを取り巻く拠点に作られた教会の絵などが床一面に描かれています。マダバの教会も描かれていますので、当時はヨルダンもキリスト教にとっては重要な地域だったということです。他にも天使や動物、魚の絵がありました。これらのストーリーがきちんとわかったら感動もひとしおだろうと思いますが、うーん、残念。モザイクは色あせることなくとても美しい状態で保存されていて、ヨルダンで1番美しいモザイクと言われているのもうなずけます。

さて、もともと考古学にそれほど興味があるわけではなくても、例えばギザのピラミッドで、あるいはアクロポリスの丘で、つい「この石持って帰りたいなぁ〜」と考えたことはありませんか。もちろん、カケラで良いんです、カケラで。ポケットに入るくらいのが思い出にはちょうど良いんですから。ウムラサスの遺跡には発掘事務所が建てられていて、発掘のために掘った土砂が辺りに適当にうち捨てられていました。ひと通り遺跡を写真におさめたあと、車に乗り込もうとしてふと足下を見ると、土砂の中に何やらきらりと光るものがありました。拾い上げてみるとガラス器の破片とおぼしきものです。よく見れば土器の破片やら鉄器の破片やらがたくさん落ちています。その日はカケラをいくつか拾って帰りましたが、机の上に並べて「2000年くらい前のものなのかなぁ」などとニヤニヤしながら想像してしまいました。ヨルダンは他にもいろいろお宝をゲットしましたが、このカケラも自分的にはかなり価値が高いです。
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2006年8月 5日 (土)

マンドラゴラ

魔術に興味がある方なら、マンドラゴラをご存じだと思います。無実の罪により断頭台で処刑された男が、断末魔の叫びの中で放った精液から生じるとされ、麻酔、麻薬、媚薬など万能の霊薬と信じられていました。しかしマンドラゴラの採取には大きな危険が伴います。その根は人間の男女の形をしており、土中から引き抜かれるときに大きな叫び声をあげ、その声を聞いたものは発狂して死んでしまうと言われていたからです。そんな恐ろしい伝説をもつ植物ですが、サハム村のオリーブ畑で、他の植物に埋もれながらそっと生えているのを見つけました。英名:Mandrake、アラビア語名:トゥッファーフ・アルマジャーニーン (狂人のリンゴ/サハム村での呼び名)、辞典には「根から麻薬」などと物騒なことが記されています。現地では、緑の実を食べるとひどい腹痛を起こし、熟した黄色い実を食べるととても元気が出ると言われています。熟した実は、グアバをもっと濃厚にしたような良い香りがしました。

マンドラゴラは、実は意外にも中東と縁の深い植物です。それは「恋茄子 (Love Plant)」の名前で旧約聖書に登場しているという事実です。母リベカと一計を案じ、アブラハムから祝福を受けたヤコブは、一時、伯父ラバンのもとに身を隠します。そこで7年間の労働の報酬として従妹のラケルと結婚できることになりましたが、婚姻の夜、姉のレアがラケルにすり替わり、そのまま結婚してしまいました。さらに7年間の労働の後、ヤコブはようやく本命のラケルと結婚しました。ある日レアの息子ルベンが「恋茄子」を見つけて持ち帰ります。子供の出来なかったラケルは、夫ヤコブを一晩レアにゆだねる条件で恋茄子を手に入れ、その後みごとに子供を身ごもりました。恋茄子には媚薬あるいは懐妊促進剤としての薬効があるのでしょう。このように、恋茄子の力を借りて子供を産むことができたラケルですが、それにしてもヤコブは元気です。レアとラケルの姉妹だけでなく、側女のビルハ、ジルハとも子供を作り、全部で12人の子供の父親になりました。実は密かに恋茄子を持っていた?
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樹齢3000年のオリーブ!?

旧約聖書の創世記によれば、大洪水の後、ノアが放った鳩はくちばしにオリーブの枝をくわえて帰ってきたそうです。地中海東岸では、紀元前3000年代にはすでにオリーブを栽培し油をしぼっていたと言われます。初期ヘブライ語のアルファベットも、アレフ (牛)、ベート (家)、ギメル (ラクダ)、ザイン (オリーブ) の4つから始まっていました。つまり、家畜、住居、輸送、農耕という文明の4つの柱を示していたわけです。かのダビデ王も、オリーブ油をもっとも大切な宝のひとつと考え、イスラエル部族の中から最もすぐれた者にオリーブの世話をさせたという記録が残っています。また、イエスはオリーブの園で祈り、さらに彼が刑に処された十字架もオリーブの木でできていました。ヘブライ語のメシアとギリシャ語のクリストスは、いずれも「聖油 (オリーブ油) を注がれた者」を意味し、イエスの通称 (キリスト) となりました。

このように、オリーブは中東地域とはとても縁が深い木です。現代のアラブ料理にもオリーブは欠かせません。食卓には塩コショウとともにオリーブオイルが置かれ、オリーブの漬け物はヨルダン人の大好物となっています。ある食事会の席で、ヨルダン北部イルビド近郊のティブネ村に残るローマ時代のオリーブの木のことを知りました。その後、職場でイルビド出身のスタッフに聞いてみると「ティブネもいいけどうちの村のオリーブも古いよ」ということだったので、さっそく彼の実家があるサハム村 (イルビド近郊) に連れて行ってもらいました。そこで見たオリーブの木は、背は高くないものの、さすがに堂々としたものでした。幹のうち根元のあたりの一番細い部分を測ってみると、なんと胴回りが5.6メートルもありました。ローマ時代のものかと聞くと、それより前のギリシャ時代のものだという言い伝えが残っているとのことでした。樹齢も3000年と言われているそうです。当時、この地域にあった野生のオリーブにギリシャ人が目を付け、このあたりではサハム村を拠点に栽培を始めたそうです。なんでもサハム村の土地を掘るとギリシャ時代の遺物が出土し、ときどき村人が掘り当ててはお小遣い稼ぎをしていると聞きました。うらやましい。

職場のスタッフに連れられて、樹齢3000年とも伝えられるオリーブの古木を見た時は、予想をはるかに超える大きさに、いたく感動したものです。その時は、おそらく村で一番大きな木を見せてくれたのだろうと思っていましたが、その後1人でドライブがてら再びサハム村を訪れると、まぁ、あるわあるわ。前回見た木のまわりを10分も歩いていると、同じ大きさかそれ以上のものが、すぐに10本ほど見つかりました。幹の直径が2メートル以上の木も数本ありました。古木の根元に腰を下ろすと、しばらくは空を眺めながらしみじみとしてしまいました。時空を越えた悠久の時を感じる、というやつです。一応、幹に耳をあててみましたが、さすがに何も聞こえませんでした。修行がたりない?。ちなみに、インターネットでイタリアにある樹齢1200年と伝えられるオリーブの木を見てみたら、思いの外細く、ますますヨルダンの樹齢3000年説に信憑性を感じました。
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生鮮市場

アンマンのダウンタウンには、肉や野菜を売る生鮮市場があります。ゴチャゴチャした雰囲気が大好きで、週末によく足を運びました。肉屋のコーナーでは皮を剥がれたヒツジがブラブラと揺れています。もちろんアラブ人はヒツジを食べるプロですから、足、内臓、頭とほとんどすべての部位をショーケースに陳列しています。蛍光灯の下で青白く光るヒツジの頭というのは、あまり気持ちの良いものではありませんが、でもヒツジの「顔」っておいしいんですよね。野菜コーナーには青々とした葉もの野菜が山のように積まれています。ジャガイモの山、キャベツの山、ナスの山、アプリコットの山などなど。四方を野菜と果物に囲まれるって、なんだかとっても良いです。日本でスーパーマーケットに行くとあふれんばかりの食べ物に取り囲まれてこの上ない幸福感に包まれますが、そもそも好きなんですね、そういう状況が。中東の砂漠の対極にあるのが、日本のスーパー。この持論、あってるかな?。対極にあるから双方をこよなく愛せるという…。ま、いいか。

リヤドの野菜スークに言った時のこと。果物の山の前を通り過ぎると後ろから「モシモシ」という声が聞こえ、ドキッとして思わず後ろを振り返りました。店員はパキスタン人でしょうか。こちらを見ながらまた「モシモシ」と言います。私は彼に「モシモシって何?」とたずねました。もしかしたらこちらを日本人と見て、気を利かせてそう言っているのかと思ったからです。しかし店員はだるそうに無言で果物を指さしました。どうやらそれはアプリコットで、家に戻ってから辞書を引いてみると、正確には「ミシュミシュ」といって、やはりアプリコットのアラビア語名でした。
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アンマンの朝市

週末の金曜日、ダウンタウンの朝市に出かけました。日本から来た方を連れて、いわばガイド役として行ったので、最初は何も買うつもりはありませんでした。しかし、ズボン屋の前で足を止めたとき、店の主人が一言「ディナール」と言ったのを聞き逃しませんでした。店の主人はさもやる気なさそうに、向こうを見ながらもう一度「ディナール」と言いました。ディナールと言えば1JD (170円)のことです。「え、何でそんなに安いの?」と思った瞬間、すでに右手は1本のジーンズをつかみ、サイズ確認をすると同時に左手で財布を抜いていました。リーバイスが、古着とはいえ破格の値段です。難民用の支援物資が横流しされているのかも、とやや不安になりつつも、大満足でした。朝市には、服以外にもいろいろな物が売られています。中にはどう見ても商品とは思えないボロボロの物もあったりして、ひやかしで見ているだけでも十分楽しめました。
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2006年8月 3日 (木)

パレスチナ問題

もともとパレスチナという呼称はフィリスティア(ペリシテ人の国)に由来し、ローマ・ビザンチン支配のもとではシリアの行政区画であり (大シリア)、アラブ支配もこれを受け継いでフィラスティーン軍区を置きました。その後パレスチナは漠然とシリア南部地方を指すものでしたが、20世紀に入り、南部シリアのうちヨルダン川の西側地域をパレスタインと定め、そこにイラクやヨルダンと同様、国際連盟の名によるイギリス委任統治を樹立することが決定されていく過程において、パレスチナの地域的区画は明確になりました。こうして、ユダヤ人国家建設予定地の中に囲い込まれた住民が、その後の紛争を通じてパレスチナ人となっていきました。

1915年、イギリスの高等弁務官マクマホンは、メッカのシャリーフであるフセインに対し、対オスマントルコ戦の協力を取り付けるため、パレスチナのアラブ人居住地の独立支持を約束します(フセイン・マクマホン書簡)。これがアラビアのロレンスで名高いアラブの反乱に結びつきました。翌1916年、イギリス外相バルフォアは、ユダヤ系資本の援助などを目的に、英国シオニスト連盟会長に対しパレスチナにユダヤ人の民族国家を建設することを認めます(バルフォア宣言)。さらに1917年、イギリス代表サイクスはフランス代表ピコと、大戦後のオスマントルコ領の分割案を密約します(サイクス・ピコ協定)。これら3つのものは互いに矛盾し、その後のパレスチナ紛争の原因となりました。

パレスチナへのユダヤ人入植は、19世紀末の帝政ロシアによるポグロム(ユダヤ人虐殺)扇動のもとですでに始まっていました。シオニズム運動を20世紀の中東支配に利用しようとしたイギリスが、パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立することに賛成(バルフォア宣言)するとこの動きは本格化し、ことに1930年代のナチスによる異常なユダヤ人弾圧が拍車をかけました。移住はアメリカを中心とする諸財団・基金によって促進されましたが、その裏に欧米の反ユダヤ主義があったことは否定できません。1936〜39年にはアラブ住民による強い抵抗運動がありましたが、その後パレスチナ分割決議案が国際的に議論される過程においては、すでにパレスチナ側の政治的・軍事的抵抗力は破壊されており、国際社会もパレスチナ人の自決権に顧慮を払いませんでした。

1948年5月、イスラエル国家の樹立とともに、アラブ諸国とイスラエルの間で武力紛争が始まりました。その中で大規模な戦争に発展したものが4度あります。48〜49年の第1次(パレスチナ戦争/イスラエル独立戦争)、56年の第2次(スエズ戦争/シナイ戦争)、67年の第3次(6月戦争/6日戦争)、73年の第4次(ラマダン戦争/ヨムキプル戦争)です。特に第3次戦争は、第1次戦争後に固定されていた休戦ラインを超えて広大なイスラエル占領地(ヨルダン川西岸、ガザ、ゴラン高原、シナイ半島)を作りだしました。それらの領域内に多数のパレスチナ人住民を抱え込んだイスラエルは、シオニズムの目標であったユダヤ人国家から大きく変質していきました。その後の第4次戦争やアメリカ主導の中東和平工作も、キャンプデービッド合意に基づくエジプト・イスラエル和平条約などの変化を生み出しましたが、その他の面では第3次戦争が作りだした現実を逆に凍結するよう作用しました。第3次戦争におけるイスラエルの圧倒的勝利は、現在において自らの首を絞める結果となっているようです。

第3次中東戦争の後、PLOは他の抵抗運動組織(PFLPやファタハ)を基盤に再編成され、イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒が共存する単一の民主的・非宗派的パレスチナ社会の建設を目標とするようになりました。イスラエル市民を巻き込む形で新しいパレスチナ社会の形成が目指されたのです。しかし、第4次中東戦争の双方の呼称が示すように、アラブ諸国対イスラエルという対立図式の中で、パレスチナ問題は宗教抗争であるいう点が強調されました。そこには、やはりパレスチナ人の自決権が存在しません。一方、本来は多様なイデオロギー的立場をもつユダヤ人知識人の非宗教的運動として出発したはずのシオニズムも、いよいよユダヤ教正統派の権威と切り離せなくなりました。近年になっても、パレスチナ人の自爆テロやイスラム過激派による攻撃と、それに報復するイスラエルの軍事作戦は、エスカレートこそすれ、終息する気配は見えません。

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ヨルダン一のレストラン

アンマンの中心部、第2サークル (ロータリー) のすぐ近くに、ファハルッディーン・レストランがあります。アンマンで高級アラブレストランというと必ずタヌウリーンが紹介されているのですが、仕事で食事の予約をしようとスタッフに頼んだら、タヌウリーンよりはファハルッディーンの方が地元の人間には評判が良いと言われました。ものは試しとそちらで食事会をしてみたら、なるほど、出てくるものすべてが納得のおいしさでした。アラブ料理は、メインディッシュとなると大体どこでもシシカバブとかミックスグリルで、まずいことはありませんが、とびきりおいしいということもありません。なんと言っても、アラブ料理の命は前菜です。ファハルッディーンは珍しい前菜をいくつも持っていて、私が特に驚いたのが小鳥の丸揚げです。小骨までバリバリと食べられました。そして生肉のミンチ (クッベ・ナイエ)。レバノンではポピュラーだそうですが、ヨルダンではあまり一般的ではなく、これをパクパク食べるヨルダン人も実はあまりいないのですが、スパイスが効いたお肉は甘みがあって絶品でした。他にも脳みそのフライ、脳みそのサラダ、血のソーセージ、イナブ (ブドウの葉っぱ)、マハシ (ズッキーニなどにご飯を詰めたもの) などなど、他のレストランとは一線を画すおいしさでした。残念だったのは、当時は代金の請求書に税金とサービスがチャージされておらず、値段をきっちり払うと「チップは!?」といつも店員からしつこく催促されたことです。個人で行った時は当然1~2ディナール (180~360円) チップを払いますが、仕事だとどうしても10人以上の大人数になるので、「1人1ディナールで20人分」とか言われると、それを個人で負担する気にはなれず、いつも支払いの時店員ともめていました。だったら最初からサービス料を付けておけと言いたいですね。
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2006年8月 2日 (水)

マイン温泉

ハマーマート・マインは、アンマンから約60km南下した谷間にある保養地です。ハマームは温泉のことで、それが複数形になっている地名の通り、この地では多くの温泉がわき出ています。海抜はマイナス200m。気温は高く乾燥していて、草木がまったく生えていないハゲ山の山腹を車でクネクネと下っていくと、唐突にホテル施設が見えてきます。ゲートに着くとそこで入場料を払い、ホテルの中庭に車を止め、早速温泉に直行しました。しかしこの時は6月。気温は37度。こんな暑い中で40度以上の露天風呂に入る人がいるでしょうか。案の定、他に客の姿は皆無です。しかし入場料も払ったし、何もせずに帰っては来た意味がないので無理矢理お湯につかりましたが、5分もしないうちにのぼせてしまい、這々の体でその場を後にしました。ホテルのレストランに入ると、窓ガラスの向こう側に大きな温泉の滝が見えます。谷底を流れる川も温泉です。辺りに硫黄のにおいがただよっているように、お湯には豊富なミネラル分が溶け込んでいて、リューマチ、関節炎、消化器系、循環器系の病気の治療に効果があると言われています。もう一度、今度は冬に行ってみたいなぁ。
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2006年7月29日 (土)

イエスの洗礼

新約聖書「マタイによる福音書」には次のように書かれています。『その時、イエスがガリラヤからヨルダン川のヨハネの所へ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネはそれを思いとどまらせようとして言った。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私の所に来られたのですか」 しかしイエスはお答えになった。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」 そこでヨハネは、イエスの言われる通りにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。その時、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になった。そのとき「これは私の愛する子、私の心に適う者」 という声が天から聞こえた』

この、キリストが洗礼を受けたとされる場所が、ヨルダンにあります。あたりにはすでにヨルダン川の流れはありませんが、当時の遺跡が発掘されていることから、この場所でほぼ間違いないようです。私も何度か訪れましたが、まだ修復工事中だったこともあり、観光客を見たことはありませんでした。もし本当なら (いや、本当ですって)、世界中からキリスト教徒が巡礼に来てもおかしくないほど貴重な場所です。それなのに、あのあまりにも静かなたたずまいは何だったんでしょう。ヨルダンは他にも素晴らしい歴史の遺物があちこちにあるわりに、外国からわざわざ訪れる観光客はあまりいません (せいぜいペトラ)。ヨルダン在住者にとってはありがたい状況でした。
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2006年7月28日 (金)

ネボ山

マダバから西に10km進むと、モーセ終焉の地と言われているネボ山があります。頂上に建っている教会の内部には、4世紀と7世紀に建てられた教会の跡とモザイクが残っています。教会の外に出ると、ヨルダン川西岸地域 (パレスチナ/カナン) が見事に一望できます。モーセはヘブライ人の預言者で、イスラエル建国の祖、ユダヤ人の祖と言われています。モーセは古代エジプトのゴシェンで生まれました。当時、ヘブライ人はエジプトのファラオのもと、奴隷として生活を送っていました。モーセが生まれる前に、ファラオはヘブライ人の王が生まれるという予知夢を見たため、ヘブライ人の新生児をことごとく殺害するよう命令を下しました。モーセの母は生まれたばかりの我が子をなんとか助けようと、モーセをパピルスであんだかごに入れナイル川に放します。それを拾ったのがファラオの娘で、モーセは王女の息子として育てられました。成長してからはいろいろあって一度はエジプトを離れますが、「エジプトに戻り同胞を助けよ、そして約束の地カナンに導け」との神のお告げを受け、そのために奇跡を起こす力を授けられました。モーセ一行の旅は「出エジプト記」にも詳しく書かれています。特に紅海が割れるシーンは映画の題材にも取り上げられていて、本当にこんなスペクタクルがあったら良いのに、と思うようなことばかりです。個人的にはこの奇跡の数々を信じたいですけどね。

モーセはその後シナイ山で十戒を授かり、さらに40年間荒れ野をさまよった末、ついにカナンの地を目前にしました。しかし神はモーセにこう言います。「エリコの向かいにあるアバリム山地のネボ山に登り、私がイスラエルの人々に所有地として与えるカナンの土地を見渡しなさい。あなたは登っていくその山で死に、先祖の列に加えられる」 残酷なことに、神はモーセにカナンの地を踏ませることは許しませんでした。モーセの死後、一行の行く末はヨシュアに託されました。研究家は、これを紀元前13世紀頃の出来事と考えています。私はモーセが十戒を授かったというシナイ山のジャバル・ムーサ (モーセの山)、そしてモーセ終焉の地であるネボ山に足を運ぶことができました。ネボ山からパレスチナ (カナン) の荒れ野を見ていると、3000年前に繰り広げられた壮大なストーリーがまざまざと脳裏に浮かび上がります。しかし、パレスチナ (カナン) を「約束の地」であるとした旧約聖書がイスラエル建国の根拠となっているが故に、パレスチナ問題を解決しがたい泥沼の紛争にしてしまいました。世の中に「絶対」なものなどないというのがおそらく大多数の日本人の考え方でしょうが、この地では、宗教によって様々な「絶対」が規定されています。自分が属する宗教が「絶対」だと言っているのですから、譲歩する可能性はゼロでしょう。う~ん。やっぱり解決は無理か…。
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マダバのモザイク

アンマンの南約30kmにあるマダバの町には、いくつもの重要な教会があります。教会内にはビザンチンやウマイヤ朝時代のモザイクが残されていますが、中でも有名なのは、聖ジョージ教会にある6世紀のパレスチナの地図です。床に敷き詰められたモザイクは、ところどころ剥がれていますが、全部で200万ピース以上と言われています。世界のどの地域でも、人が宗教にそそぐ情熱には目を見張るものがありますが、キリスト教は特にその情熱を絵画やモザイクなどの芸術作品に向けるように思います。

以前にもエジプトのシナイ山で撮られた同じような写真を見ましたが、マダバの教会でも、光の玉がポツポツと浮かぶ不思議な写真を撮りました。たぶん砂埃にカメラのフラッシュが反射したものだと思いますが、ちょっとそれっぽい雰囲気もありますね。マダバの場合、この写真の前後にもフラッシュ撮影はしていますが、そちらには光の玉は出ず、祭壇を撮ったこの写真にのみ現れました。なんなんでしょうね。
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2006年7月27日 (木)

ソドムとゴモラ

■旧約聖書:創世記・第19章
夜が明けて、御使い達はロトを促して言った。「立って、ここにいるあなたの妻と二人の娘とを連れ出しなさい。そうしなければ、あなたもこの町の不義の為に滅ぼされるでしょう。逃れて、自分の命を救いなさい。後ろを振り返って見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山に逃れなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」。ロトがゾアルに着いた時、太陽は上った。主は硫黄と火とを天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、全ての低地と、その町々の全ての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。しかしロトの妻は後ろを顧みたので、塩の柱になった。

■何が起こったのか
ソドムとゴモラに何が起こったのでしょう。考えられるのは、大地震ではないでしょうか。大地が大きく陥没し、地中のガスが吹き出し引火、そしてこの地に大量に存在した硫黄に燃え移ったと考えるのは、それほど不自然ではありません。現在の航空写真を見ても、陥没によって死海の水が南側に大きく広がったように見えます。また、死海のほとりに立つと、場所によっては硫黄のようなにおいが鼻をつくことがあります。

■ロトのその後
ロトは娘2人とともに、洞窟で過ごします。「父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、わたしたちのところへ来てくれる男の人はいませ ん。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう」。聖書にはこのように記されています。結果、2人は男の子をもうけます。姉の子 はモアブ人、妹の子はアンモン人の祖先となります。聖書になぜこのような記述があるのでしょう。これは、当時風紀が乱れていたモアブ人とアンモン人を差別 する理由、そのいわれを説明したかったのだという指摘があります。申命記・第23章には、「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代 目になっても、決して主の会衆に加わることはできない」と書かれており、明らかに蔑視されています。ヨルダン人の祖先なんですけどね。
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死海リゾート

死海にいくつかあるホテルでは、アラブ人もよく見かけました。スイミングプールで彼らの会話にちらっと聞き耳を立てたところでは、サウジアラビアなど湾岸諸国からの旅行客が多かったように思います (しかも若いカップル)。サウジアラビアでは、女性が人前で水着になるなど考えられませんが、同じアラブでもヨルダンは比較的オープンなので、女性たちも安心してプールを楽しんでいたようです。いい大人が嬌声をあげながら嬉々としてウォータスライダーをやるのもちょっとどうかなと思いましたが、本国で抑圧されている分、精一杯楽しみたいということなんでしょう。もちろん、上下に服を着込み、頭髪はスカーフで隠す完全防備の姿でプールサイドにたたずむ女性もいました。こういうギャップを見るにつけ「アラブだなぁ」としみじみ思います。

地元のヨルダン人は、わざわざ入場料を払ってホテルの施設を利用するようなことはしません。どこであっても死海は死海です。確かにあの真っ黒な泥はどこにでもあるわけではありませんが、水遊びをするのならまったく問題ありません。しかし地元の人でにぎわっているビーチ (?) に行くと、圧倒的に着衣率が高くなります。女性は黒いガウンにスカーフ、子供は普通の服を来たまま水に入っています。それを見て、つくづく「別世界だなぁ」と再びため息が出るわけです。
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2006年7月26日 (水)

死海の塩

死海の水は、海水のおよそ7倍の約27%という濃度の塩分を含んでいます。数種の微生物をのぞき、生物らしい生物は見ることができません。まさに死の海です。塩分濃度が高いので、死海の水際には大きな塩の結晶があります。この天然の塩の固まりを、よく家に持ち帰りました。料理に使うとなんだか少しコクがでるような気がしたのです。この塩の固まりは、乾燥したヨルダンでは常にカチカチでしたが、日本に持って帰ってくると、湿気ですぐに表面がベトベトになりました。何人かにあげると「味がある」とか「漬け物がおいしくなる」などと、けっこう評判は良かったです。死海といえば昔から薬効があることが知られていて、バスソルトや死海の泥が入った石けんやシャンプーなども、お土産として豊富な品揃えがあります。

死海の塩が濃いのは、水を注ぎ込む川が少ないことが原因です。流入量と蒸発量がほとんど同じなので、水面の高さも年間を通じてあまり変わりません。見た目の水量は同じでも、水分中にとけ込んだ物質はどんどん濃くなっていくわけです。ある年の5月、アカバに行くため死海沿いの道を走っていました。ずっと右手に青い水面を見ながら飛ばしていましたが、ある場所で急に水面の色が変わり、茶色い水が目に飛び込んできました。水面が、見事なくらいはっきり青と茶色に別れています。不思議なこともあるものだと思いながら先に進むと、茶色い水は大きな川から注ぐ大量の泥水でした。以前来た時は小さな川でしたが、何キロか上流の方で大雨が降ったようです。あの濁流を見て「塩が薄まっちゃう~」と思ったのは私だけではないハズ。
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死海

ヨルダン着任早々「まずは死海」とばかりに、職場のスタッフを誘って死海まで車で出かけました。道はずっと下り坂で、パッと開けた視界の彼方には死海の先に広がるヨルダン川西岸地区が見えています。ドライブには最高ですが、山の斜面をけずって作られた道はクネクネと曲がっていて片側が断崖絶壁なため、少し緊張気味に走りました。アンマンの標高は1600m程度ですが、なにしろ死海はマイナス400mです。長い下り坂をだいぶ走ったところで「Sea Level (海抜0m)」の看板がありましたが、まだまだ下り坂は続いていました。さすが「地球でもっとも低い場所」です。ようやく坂を下りきったところで、あきらかに気温が高くなりました。アンマンの涼しい気候に比べると、強烈な日差しと高い湿度で熱気ムンムンです。まぶしい太陽に目を細めながら、しばらく死海沿いの道を走ると、リゾートホテルの看板が見えてきました。ホテルはいくつかありますが、その日は Dead Sea Spa Hotel に入ることにしました。なお、別にホテルを利用しなくても、いたる所で自由に死海に入ることはできますが、水に入った後は必ずシャワーを浴びて濃い塩水を落とさなければならないので、ホテルを利用するのが一般的です。

入場料を払い、タオルを借りて水際に移動すると、さっそく泥んこになった一団を見つけました。死海に行ったらまずはその水に浮いてみる、そして足下から泥を拾って体中に塗りたくる。これが死海の楽しみ方です。私は子供の頃に「Believe it or not」を読んで、「水に浮かんで新聞が読めるなんて!!」と興奮したのを覚えています。死海に1歩足を入れた時、その時の気持ちがよみがえってきました。ゆっくりと腰まで水につかり、ヌルリとした肌触りの中、まずは平泳ぎをしようとしました。ところが、あまりにも浮力が強すぎて、平泳ぎの体勢では体がエビ反ってしまい苦しいばかりです。結局、他の人がしているように、仰向けになるのが正解でした。仰向けといっても、胸から上、ヒザから下が水から飛び出しています。強烈な浮力です。新聞を読むなんてお茶の子さいさいでした。ただしガイドブックに書いてある通り、水に入っている時間はせいぜい5分か10分にとどめておいた方が良いでしょう。もちろん、いくら長く入ろうとしても、お尻がピリピリ痛くなってくるので、ほどなく限界を悟ることになります (実は前も)。すり傷はもちろん、蚊に刺されたあとですらメチャメチャ痛かったです。それにしても良く浮きました。これでまたひとつ、自分の中の疑問が解けてスッキリ。
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2006年7月25日 (火)

古代ローマの変なおじさん

ヨルダン国立考古学博物館には、古代ローマ時代の遺物がたくさん展示されています。それよりもずっと古い年代の、ダイナミックな造形を持った品々にも心を打たれますが、個人的にはローマ時代のコインやガラス工芸品の洗練された美しさに、何度見ても目を奪われます。大体において、古代の遺物は芸術としての品格が備わっているように思います。もちろんそういう一級品ばかりを博物館で展示しているのでしょうが、どれもこれもマニア垂涎の的です。そんな中に、ちょこんとひとつ、変なものを見つけました (3枚目の写真)。小さなお皿に描かれた1人の人物。槍を持っていますから、たぶん男性でしょう。しかし頬にはやや赤みがさし、クチビルははにかみを見せています。それでいて眉毛が濃いし、髪型は、まぁ古代ローマ時代はこんなもんだったのかもしれませんが、やや広くなり始めた額を隠すのに必死といった感じがありありです。腰つきはヘナチョコで、槍もなんだかすごく適当に書いてあります。総合すると、どう見てもただのオカマです。これが2000年前のお皿だと考えると、貴重だなぁと思わないでもありませんが、他の格調高い収蔵品と比べると、なんだかとても場違いな気がしてなりません。実は来場者を笑わせるために置いてある!?
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死海写本

アンマン中心部、アルカルアの丘に、ヨルダン国立考古学博物館があります。本当に小さな建物ですが、展示物はなかなか興味深い物が並べられており、中でも白眉は「死海写本 (死海文書)」です。死海写本は、死海北西岸のクムラン洞穴群を中心に、ヨルダン各地で発見された文書のことを言います。1947年、ベドウィンの少年がクムランの洞穴で、素焼きの壺におさめられた巻物を発見しました。現在までに11の洞穴から500をこえる写本の巻物が見つかっており、第1洞穴からは「イザヤ書」の全巻が発見されています。写本は羊皮紙やパピルスなどにヘブライ語、アラム語、ギリシャ語などで書かれていて、これらは2000年前にこの地で修道生活を送っていた古代ユダヤ教の一派であるエッセネ派が残した物です。当時、ローマ軍の襲撃から守るため、荒野の洞穴に隠したと言われています。いずれも紀元前200年頃から約300年の間に書写されたもので、現存する最古の聖書より1000年近く古いものです。聖書以外の巻物は、多くの旧約聖書の注解と、クムラン宗団の典礼、教理、戒律などを記した物です。

残念ながら、写本のほとんどはエルサレムのイスラエル博物館にあり、アンマンの博物館にある物はごくごく一部だけです。いつかエルサレムに行って全貌を見てみたいですね。ちなみに、死海写本にはとんでもないお宝のありかが密かに記されている、などと「ムー」には載っていましたっけ。
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2006年7月24日 (月)

ゴラン高原

イルビドのさらに北にあるサハム村は、ヨルダン最北に位置する国境の村です。ヤルムーク川を国境線として、対岸にはイスラエル領ゴラン高原が広がっています。国境と聞くとどこかものものしい感じがしますが、そこは川の浸食によって数百メートルの渓谷となっており、素晴らしい眺めから多くの家族連れでにぎわう行楽地となっています。ただし、常に警備の軍人が目を光らせており、基本的にはイスラエル領の写真撮影は禁止されています。この時一緒に行った地元出身のヨルダン人が警備の軍人にしばらく話しかけていると、すぐにうち解けたのか、私たちを一番眺めの良い場所まで案内してくれたばかりか、写真まで許可してくれました。川底には線路と鉄橋があって、彼らは「オリエントエクスプレス」だと言っていましたが、もしかしたらアラビアのロレンスたちが爆破した「ヒジャーズ鉄道」かな?

ゴラン高原は、1967年の第3次中東戦争以来イスラエルが占領を続けており、今でもシリアとは領土の帰属をめぐって紛争が続いています。当時ゴラン高原に住んでいたシリア人 (イスラム教ドルーズ派) 約10万人のうちほとんどは、シリア領内に移住せざるを得ませんでした。高原南部、つまりヨルダン国境付近は水源があり土地も肥沃なため、逆にイスラエルからは移住者が相次ぎ、多くの村落 (キブツ) が建設されました。ヨルダン側に警備員がいるように、ヤルムーク川の向こう側の丘、イスラエル領にも軍人が常駐して常にこちらを見張っています。「お互い睨み合って毎日大変だね」と警備員に声をかけると、彼は複雑そうな表情をしてこんなことを話してくれました。「実は我々が見張っているのはイスラエル側からの攻撃ではなく自国のパレスチナ系住民なんだ。無茶な奴らが越境してイスラエルに攻撃をしかけたらヨルダンはもっとひどい目にあうからね」 これを聞いて、ヨルダンの難しい立場をまたも再認識しました。
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憎しみの連鎖

初めての中東暮らしはカタールでした。ちょうどインティファーダ (パレスチナ人の蜂起) の頃で、毎日夕方のニュースでイスラエル治安部隊に投石するパレスチナ人の映像が流れました。治安部隊に捕まったパレスチナ人は、その場に押さえつけられ、投石できないように大き目の石で両肩をゴンゴン叩かれ、骨を砕かれていました。平和ボケした日本から来た私にとっては、衝撃の映像でした。そこで私が何を感じたか正直に言うと、それは押さえようのない怒りでした。明らかにパレスチナ人は被害者だと思ったし「イスラエル許せん!!」と本気で腹が立ちました。職場にもパレスチナ人が何人かいて、彼らとパレスチナ問題の話をしても、そこには「話し合いで」とか「政治的に解決」などという言葉は微塵も出てきませんでした。日本人なら「傷つけられた悲しみは相手を傷つけても癒えない」という仏教的な (?) 考え方が多少なりともあるように思いますが、パレスチナ人にとっては、徹底抗戦とイスラエル殲滅あるのみといった雰囲気が濃厚でした。

ヨルダン勤務の2年間は、毎日新聞やテレビでイスラエル軍によるパレスチナ人殺傷のニュースを見聞きしていました。2、3ヶ月に1度は、職場のパレスチナ系ヨルダン人スタッフの身内がイスラエル軍に殺されたという話を聞きました。そんなスタッフから「家族が殺されたら誰だって銃を取るさ、お前だってそうだろ」と問いつめられた時は、私は黙ってうつむくしかありませんでした。イスラム教の聖典コーランには「敵を見たら殺しなさい」とか「敵のうちでもっとも悪いのは自分の土地を占領する者である」などと書かれています。パレスチナ人にとって対イスラエル戦は完全に正義であり、殉死したなら天国に行くことが約束される「ジハード (聖戦)」なのです。ここのところ連日イスラエル軍によるレバノン攻撃が報道されていますが、パレスチナ人が本気ならイスラエル人も本気です。やはりどちらかが完全に消滅するまで、戦いは終わらないのかも知れません。

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アルカルア (要塞)

ヨルダンの首都アンマンの中心部、ダウンタウンを見下ろす絶好の場所に「アルカルアの丘 (Jabal Al-Qal’a」はあります。眼下にはローマ劇場とともにラガダンのバスターミナルが一望できます。ラガダンはバスの発着とともに人の移動がめまぐるしく、ローマ劇場ではリュックサックを背負った外国人旅行者の姿が目立ちます。アンマン一活気のある地区と言えるでしょう。アルカルアの名の通り、この丘には青銅器時代から要塞が建てられ、ローマ、ビザンチン、そしてイスラム時代に入ってからも地域の要所として建造物の破壊と再建が繰り返されました。現在も一応は「アンマン城」がありますが、外観はボロボロに崩れています。むしろ2世紀に建てられたヘラクレス神殿の跡の方が目を引くでしょう。

ダウンタウンの反対側に広がる町を見下ろすと、アンマンの人口過密問題を象徴しているような光景が目に飛び込んできます。見渡す限りの家、家、家。丘を埋め尽くす石造りのアパートの群れは、あたかも巨大な城塞のように見えます。ちなみに、アンマンにはたくさんの丘があります。当時、アンマンに足を踏み入れた古代ローマ人は、7つの丘を持つローマを郷愁とともに思い出し、ここに居を構えたのだそうです。
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2006年7月23日 (日)

四面楚歌

あらためてヨルダンの歴史を振り返ってみると、本当に苦難に充ち満ちていますね。ヨルダン王室がイスラム教の開祖ムハンマドの直系というのが唯一の救いでしょうか。これがなかったら周囲から容赦ない攻撃を受けてとっくに消滅していたと思います。現在も様々な問題を抱えるヨルダンですが、各派との関係をまとめてみました。
■対イスラエル
軍事力ではかなわない。水源も大きく依存。「中東の優等生」として欧米の援助を引き出すためにもイスラエルとの和平路線は必至。しかし仲良くしすぎるとアラブ側が反発。援助停止の恐れも。
■対アラブ諸国
湾岸産油国からの食料・財政援助は国家の命綱。アラブ各国に出稼ぎに行っているヨルダン人労働者からの送金は貴重な外貨獲得源。やはり湾岸産油国には頭が上がらない。
■対パレスチナ自治政府
アラブ寄りだと示すためにもパレスチナ自治政府への支持表明は必要。国内には多数のパレスチナ系住民を抱える。歴史的には国内のパレスチナ武装勢力を何度か国外退去させている。
■対イラク
イラクとの同盟関係は同国の軍事的脅威を取り除くとともに、援助取り付けのためにも必要不可欠であった。湾岸戦争ではイラク寄りの姿勢を見せた結果、世界中から反発を受け、湾岸産油国にいたヨルダン人出稼ぎ労働者の多くが国外退去となりヨルダンに帰還した。イラク経済の復活はヨルダン経済にもダイレクトに影響する。
■対ヨルダン国民
人口530万人のうち、6割 (首都アンマンでは7割以上) がパレスチナ系。ヨルダン王室はサウジアラビアから来た外様。政府はオリジナルのヨルダン人には種々の優遇策を採るが、それがパレスチナ系住民の反発を生んでいる。
■対シリア、クウェート
対イスラエル政策で、穏健派のヨルダンと強硬派のシリアは歴史的に関係が悪い。湾岸戦争でイラクを支持したためクウェートとは今でもぎくしゃくした関係。
■対イスラム原理主義者
パレスチナ系住民のイスラム原理主義組織への支持は根強いが、ヨルダン政府は原理主義者による無差別テロを完全に否定している。政府の姿勢は欧米諸国から高く評価されているが、アラブ諸国からは反発を買うことも。

ふぅ~。しかしヨルダン国王はこんな綱渡り良くやっていますね。これだけ難しい舵取りをこなしているバランス感覚はそんじゃそこらの首相にはマネできないことかも。「明日からヨルダン国王にしてやるぞ」と言われても、たぶん遠慮するなぁ。

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ヨルダン小史

■旧約聖書の時代
ヨルダン川の東にアンモン、エドム、ギレアド、モアブなどの王国がありました。これらの王国はエジプト、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ローマによって絶え間なく征服されたり、支配下におかれたりしました。
■諸外国による支配
ビザンチン帝国の領土となったヨルダンは、西暦633~636年にアラブ人によって征服され、以来イスラム国家となりました。十字軍の時代、一時期キリスト教色が強められましたが、その後、エジプトのマムルーク朝の支配をへて、1517~1918年の400年間はシリア、パレスチナをふくむ大シリアの一部としてオスマン帝国に支配されました。
■独立
映画「アラビアのローレンス」で描かれた「アラブの反乱」によって、1918年にヨルダンはオスマン帝国から解放されました。イギリスの後押しで、メッカのハーシム家から呼ばれたアブドゥッラーが首長位につきましたが、1946年にイギリスの委任統治が終わると、トランス・ヨルダン王国として独立を宣言、アブドゥッラーが王位につきました。
■第1次中東戦争
1948年5月、イスラエルの国家樹立宣言と同時に中東戦争が勃発しました。結果はイスラエルの圧勝。エルサレムの旧市街をふくむパレスチナ全土のほぼ80%がイスラエルに占領され、160万人のパレスチナ難民が生まれました。1950年4月、アブドゥッラー国王はヨルダン川西岸地区 (パレスチナ) を併合し、国名をヨルダン・ハシミテ王国と改めました。「ハシミテ (Hashemite)」とは、予言者ムハンマドの直系を主張するメッカのハーシム家からきています。翌年、アブドゥッラー国王はパレスチナ人に暗殺され、子のタラールが後をつぎましたが、病弱なためすぐに退位、タラールの17歳の子フセインが即位しました。
■PLOとの衝突
1960年代、シリアからヨルダンへ拠点をうつしたPLO (パレスチナ解放機構) などアラブ・ゲリラ各派は、ヨルダンを基地としてイスラエルに対する攻撃を行ったため、ヨルダンはたひたびイスラエルから報復を受けました。1966年7月、ヨルダンはPLO支援を停止したため、以後、PLOはフセイン国王打倒を呼びかけ、衝突をくりかえしました。アラブ諸国とイスラエルの緊張はますます高まり、1967年6月に第3次中東戦争が勃発。しかしわずか6日間でイスラエルが圧倒的勝利を得ました。ヨルダンもイスラエル軍によって空軍が破壊され、ヨルダン川西岸地区が占領されてしまいました。ヨルダンは国連安保理による戦後処理案 (242号決議) を受諾したため、PLOなどパレスチナ各派の反感を買い、攻撃をあびることになりました。危機を感じたフセイン国王は、1970年9月、パレスチナ各派を国内から追放しました (Black September事件)。
■アラブ諸国との関係改善
アラブ諸国との関係が悪化していたヨルダンですが、1973年の第4次中東戦争に参戦するなどして、これを契機に各国との国交を回復しました。1974年、国連がPLOをパレスチナ人の唯一の代表だと承認すると、ヨルダンもこれに追従し、見返りにアラブ諸国から経済・軍事援助を取り付けることに成功しました。1975年、ヨルダンはシリアとの友好関係を確立。また1980年に始まったイラン・イラク戦争ではいち早くイラクを支持し、ヨルダン領内でのイラク向けの物資通過を認めるなどして、地域政治におけるバランスの良さを示します。1988年、イスラエル占領下のヨルダン川西岸地区のパレスチナ人に対して、フセイン国王は統治を放棄しました。
■湾岸戦争とその後
1990年8月、イラク軍がクウェートに侵攻すると、ヨルダンは明らかにイラク寄りの姿勢を取ったため、アメリカやサウジアラビアなどアラブ諸国との関係を悪化させました。イラクに対する世界的な経済制裁は、関係が深かったヨルダン経済に大きな損失をもたらします。さらにペルシャ湾岸諸国で働く大量のパレスチナ難民がヨルダンに流入してきたため、国の失業率は30%に増加しました。1994年7月、フセイン国王はイスラエルのラビン首相と46年間にわたる両国間の戦争状態に終止符を打つための平和協定「ワシントン宣言」に調印し、これにより対米債務を帳消しにしました。1999年2月、フセイン国王は崩御、息子であるアブドゥッラー2世が王位を継承しました。アブドゥッラー国王は中東和平の仲介役としての立場をアピールしています。
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2006年5月26日 (金)

まずい料理3

2000年8月からヨルダンに赴任しました。ヨルダンは外国の援助がないと国が成り立たないほどの小国ですが、その割に物資は豊富で、またレストランもたくさんあります。アラビア半島の人から言わせると、ヨルダン、シリア、レバノンは本当に料理がおいしいそうで、確かにヨルダン料理でもその前菜の豊富さとおいしさには目を見張るものがあります。ホモス (豆のペースト)、ムタッバル (ナスのペースト)、エナブ (ブドウの葉)、クッバ (コロッケ)、肉のたたき、小鳥の唐揚げ、ヒツジの脳みそ等々、素晴らしい料理が目白押しです。アラブ料理以外にも、イタリアン、中華、タイ、インドなど各国料理が楽しめ、外食にはまったく困ることがありませんでした。しかし、しかしです。あの9.11同時多発テロが起こってから、すべてが変わってしまいました。9.11以降、何が変わったかというと、観光客が激減したのです。国内の景気も一気に停滞ムードになってしまいました。そのため、どのレストランも客が集まらず、仕方なく高給取りのシェフを解雇しなければならなくなりました。その結果、どの中華料理屋も味が異常にまずくなり、イタリア料理屋はアラブ料理に変わり、昼夜やっていたお店は夜だけの営業に切り替えるということが起こりました。アラブ料理屋は、味自体は変わりませんでしたが、メニューを減らす店が増え、そうなるともともとメインディッシュはミックスグリルくらいしかないので、そうそう何回も続けては通えなくなりました。こうして、ヨルダンにいた後半1年間は、驚くほど外食の数が減り、文字通り味気ない生活を送る羽目になりました。

これもヨルダンのネタ。大多数のアラブ人はお酒を飲まないこともあって、かわりに喫茶店が社交場として大いににぎわっています。アンマン市内の、いつもお客で混雑している喫茶店に行ったときのこと。アラビア湾岸諸国で飲まれているアラビックコーヒーはないかとメニューを眺めていると、一番高い値段がついた「ゴールデンコーヒー」というものを見つけました。アラビックコーヒーは黄色っぽい色をしていたので「これだ!」と思って注文しましたが、来たのはネスカフェ・ゴールドブレンドのパックとお湯でした (泣)。この時は「インスタントコーヒーの方がまずいくせに高いんだなぁ」と肩を落としました。同じ店で後日「アイスコーヒー」を頼みました (珍しくメニューにあった)。来たのはどう見てもただのチョコパフェでした。アイスクリームとコーヒー (チョコ) の組み合わせってことでしょうか…。ある人はアイスコーヒーを頼んだらアイスクリームが浮かんだホットコーヒーが出てきたそうです。もう笑うしかない…。
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2006年5月18日 (木)

マンサフ

サウジアラビアのカフサについてすでに書きましたが、ヨルダンにも同じような料理があります。ヒツジを煮込んだスープでご飯を炊き、ご飯の上にお肉を乗せて出すのは同じですが、大きく違うのは、ジャミードというヨーグルトソースをかけて食べることです。これが日本人には好き嫌いのわかれるところなのですが、個人的にはジャミードなくしてマンサフは成立しないと思うほど、絶妙のマッチングだと信じています。ヨルダンやシリアなど中東北部の国は、料理がとても発達しています。アラビア半島とは比べ物にならないくらい料理の種類がありますし、それぞれ手が込んでいます。中にはヨーロッパ料理かと見間違うほど洗練されたものもありますが、その中で、アラビア半島のカフサを発展させた形のマンサフは、料理そのものの野性味と、ヨーグルトソースの繊細さが、みこどに融合し昇華していると思います(もしかしたらカフサの方がマンサフから「退化」したものかもしれません)。アラブ料理と聞くと、なんとなく大ざっぱで大味、というイメージがあるかもしれませんが、マンサフをはじめ、実際にはヨーロッパ人もびっくりするような料理がたくさんあります。

アンマンの秋もそろそろ終わりかという11月のある日、いつものようスーパーに買い物に行くと、店内がチーズのようなこってりとしたにおいに包まれていました。カートをひいてうろうろしていると、スパイス売り場の一角に、なにやら白い玉が積み上げられています。マンサフにかけるソース、ジャミードの玉でした。昔はどの家庭でもジャミード作りが奥さんの大切な仕事だったそうですが、今ではこうして、玉に丸めて乾燥したものが買えるようになっています。しかし今でも、ジャミード作りがうまいご婦人は近所から引っ張りだこだそうです。結婚するならジャミード作りがうまい女性、と言っていたスタッフもいたなぁ。

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ラクダのこぶ

ヨルダンで年に一度ハッジ(メッカ巡礼)の時期に売られるラクダ肉。その時期、肉屋の店頭にはラクダの首がぶらぶらと揺れています。久しぶりにラクダでも食べようかと、1軒の肉屋に入り店内を物色していると、なにやら白い固まりがフックに引っかけられていました。そのボリュームと微妙なカーブを見た途端、思わず体が固まりました。「もしかしてこれはあれなのか!?」とはやる気持ちを落ち着かせ、店主に聞いてみると、やはりそれはラクダのこぶでした。バーベキューでかりかりに焼くと最高においしいそうです。なんと言うか、「マジ!?」という違和感と、「やっぱり食べるんだ!!」という満足感が交錯した、複雑な、しかしやっぱり嬉しい気持ちに包まれました。頭の中では月の砂漠のメロディーが流れています。砂漠の王子とお姫様もラクダのこぶを食べたのかな、などと考えながら、ひとかたまりのこぶを買って帰りました。

ハッジの時期は、あちらこちらににわかバーベキュー屋が並びます。たいてい肉屋で、軒先には売り物のヒツジがぶら下がっているのですが、自分で肉類を持ち込んでもOKです。よく焼いてくれとひとこと言えば、あとは香ばしく焼き上がったラクダのこぶが出てくるというわけです。コレステロールはかなり高そうですが、肉の脂身が好きな人にはたまらない逸品でしょう。ちなみに、ヒツジのしっぽもそうですが、こういう「全部脂身」というのは、バーベキューにしてもいつが食べどきなのかよくわかりません。焼けば焼くほど脂が落ちていくので、放っておくとそのままなくなってしまいます。まぁ、だいたい火が通って表面が少しカリカリになったら食べ頃ということでしょうか。
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ラクダ

サウジアラビアのスーパーマーケットでは、ヒツジ、鶏肉、牛肉に加え、ウサギやラクダの肉も売られています。前々から気になっていたのですが、ある日ついに勇気をふりしぼり、ラクダの切り身を買ってみました。帰宅後、さっそくまな板の上に乗せて、まず感じたのはずいぶん水っぽい肉だということです。砂漠の船と言われるだけあって、肉にも水を溜めているのでしょうか。まず手はじめに塩・胡椒でステーキにしてみると、案の定、水分がどんどん出て、みるみる肉がちぢんでしまいました。焼き上がったステーキはかみ切れないほど堅く、とても食べられません。次にラクダのシチューを作ってみると、これがかなりいけます。ラクダの肉は煮込めば煮込むほどやわらかくなっておいしくなるようです。後日、今度はラクダの挽肉を買ってきて、一緒に買ったヒツジの脳みそと混ぜ、特製ハンバーグを作りました。ショウガやネギ、ゴマ油にしょう油を加え、イメージとしてはヘルシー豆腐ハンバーグといったところです。翌日、知人とバーベキューをしたのでこれを焼いて食べてもらうと、まさに和風ハンバーグのようだとかなり好評でした。

ヨルダンでは、年に一度、ハッジ(メッカ巡礼)を祝うイード(犠牲祭)の時期にラクダの肉が売られます。サウジでは切り身になってパックで売られていましたが、ヨルダンでは首を一本、肉屋の店頭にぶらさげて売っていました。確かに首の肉はおいしいのですが、いくらなんでもこんな姿で売らなくてもなぁと思いました。2kgほど肉を買って店を出ようとしたとき、1台の車がその店の前に止まりました。おばさん2人組は肉の値段を聞くと、「そんなに高いのかい!?、イードの翌日に来るよ!!」と捨てぜりふを残して去っていきました。2人組の言う通り、イードの翌日にはラクダ肉の値段はだいぶ安くなってしまいます。でも、高くてもイードの日に食べたいというのが庶民の気持ちのようです。クリスマスケーキみたいなものですね。
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ヒツジの顔

ヨルダンの首都アンマンに、おもしろいレストランがあります。カイロレストランというお店ですが、「ヒツジの頭」というよりは「ヒツジの顔」というべき料理があるのです。その店はなかなかの盛況ぶり。店員にオーダーし、どきどきしながら待つこと数分、やがて目の前にあらわれた皿には、思いっきりヒツジの顔が乗っていました。正確には、脳天でカパッと割られたヒツジの顔、右半分が横たえられていました。なんだかあまりにも「顔」なので、最初はなかなかナイフを入れることができませんでした。あっけにとられている自分を見て、まわりのお客がくすくすと笑っているようでした。いかんいかんと首をふり、気を取りなおしてナイフを取ると、おもむろにあごの方から食べ始めました。

この料理は顔のゼラチンを食べるものです。一番近い食感といえば豚足でしょうか。豚足はけっこう好きなので、この顔料理もばくばく食べることができました。そう、豚足と違って、ばくばくと食べられるほどゼラチンの量が多いのです。フォークの先でプルプルとふるえるゼラチンを見て、コラーゲンだなぁと妙に納得 (←実はゼラチンとかコラーゲンとか区別がよくわかっていない)。少量ですが頬肉もついていて、これがまたとろとろの絶品です。うれしいことに、舌も半分になって残っていました。とろけるほど煮込まれたタンは、これまたうなるほどのおいしさでした。残念ながら脳みそはありませんでしたが、目玉はひとつありました。今まで魚の目玉も食べたことはありませんでしたが、こってりしていてけっこうおいしいんですね。というわけで、見た目はグロテスクですが、ヒツジの顔は本当においしかったです。食べ終わったあと、思わず両手で拝んでしまいましたが。
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